●時のブークレ・boucle de temps●


 もしも賢い人がまちがいをしないとしたら、愚か者は絶望するほかないだろう。

 

* よはん・うおるふがんぐ・ふぉん・げーて

johann wolfgang von goethe

 (1749-1832)

 訳 高橋健二




九【1】

 とても良い結婚式だった。渋谷のゲストハウスを貸し切りでウエディングなんてクール。

 ライスシャワーの代わりに、ライトアップされ虹色に舞う、シャボン玉シャワーに包まれて歩く二人。幻想的でハートフルな演出は、列席者をも十二分にハッピーにさせてくれた。中学時代からの付き合いで、いま新婦になったばかりの友人に、九は声をかけた。

「おめでとう! 綺麗よ、スッゴく」

「ありがとう、キュウ。ブーケはアンタに投げるからねッ」

 新婦は本当に嬉しそうに微笑み、そして宣言した。

 九は何と答えようかと、つい考えてしまったがすぐに止めて、素直に「よろしく」と言っておいた。

 九というのは彼女の本名だ。正しく読める人には22年間で一人も逢ったことがない。皆「キュウさんですか?」と訊く。たまに「イチジクさん?」と言う博識な人もいたが、その都度彼女は「サザラシです。すいません」と訂正し、相手を苦笑させるハメになった。

 学校を出て社会人になっても誰も彼女の本名は呼ばない。彼女の呼び名はいつも「キュウちゃん」であり、それは憲法みたいに誰かが決めた、すべての人が守るべき義務か、あるいは重要な権利のような事だった。別に困りもしないが、逆に「サザラシです」と名乗った場合は、必ず漢数字で「九」と書いてそう読むのだと、いちいち説明する必要があった。そのうえ、どこの出身かと訊ねる人もいる。仕方なく、生まれは東京の端っこで23区内だし、小学生の時に父が埼玉に家を買うまでは、祖父の代にも都内の団地住まいだったと事実を告げる。すると何故だかそのほとんどが、がっかりした顔になるのだ。

 この苗字のおかげで人に忘れられる事はないが、めったなことも出来ない。小さな頃からずっと、常にいい子で居なければならなかった。それが現実世界の彼女の人生をいくぶん窮屈なものにしているのだと、彼女自身は信じている。

「よく来てくれたね、何年ぶり? アタシ絶対振られると思ってたよ」そう言って花嫁は笑った。

「100 年くらい?」

 彼女も笑った。

「二次会、出れるんでしょ? キュウ」

「うん、夕方までならね」

「大丈夫よ。ここの二階。披露宴済んだら、すぐ模様替えしてやるんだから。ロスタイムはなし。いい男紹介するし」

 新婦はすっかりご機嫌だ。

「ありがとう。ただそっちの趣味はアンタとはあまり……ね」

 冗談めかして言った九だが、半分以上は本気だった。

「相変わらず言う言う。じゃ、楽しんでってね」

 彼女は本当に嬉しそうに言って 3階のチャペルを出て行った。もちろん、新郎と一緒に。

 その後ろ姿を見送りながら思う。

(ウチは結婚なんてしないんだろうな)

だいたい今まで、恋だってロクにした記憶がない。20年以上生きているのに、ちっとも。

そして、去年、とあるクリスマスパーティーで知り合った、『i』と言う男を思い出しかけて、その顔がうまく思い浮かばないことに気づいた。でも、別段、不思議とも思わなかった。

 人は写真のように、他人の人相を記憶しているものではないのだ。現にたった今、親友の夫の顔を説明しろと誰かに言われたなら、彼女は一言も伝えられそうになかった。

(ウチは頭が悪い)彼女はいつもそう考えては、自己完結してしまうのを癖にしていた。そして誰にも聞こえないように溜息をつくのだ。

「ほぅ」

藍毅【1】

◆◆◆

「Qがいなくなった」

 2009年6月27日午前2時。電話の中から「スミス」は挨拶もなく言った。

「Qが?」

 藍毅《あいき》も、やはり相手の確認もせず問い返す。長い付き合いに、お互い手順は要らないと言う事のようだ。

「そうだ。今夜、いやもう昨日か。夕方から携帯が繋がらない。お前、何か知らないか?」

 「Q」と言うのは藍毅《あいき》と「スミス」との共通の知人で、「スミス」主催の創作物を投稿するウエヴサイトの女性メンバーだ。半年程前、昨年のクリスマスには藍毅や「スミス」他のメンバー数人と、パーティーをした。OFF会というものだ。

 藍毅と「Q」はそのOFF会で初めて顔を合わせたのだが、互いの作品を通じて抱いていたイメージと、ひととなりがかけ離れていて、互いに良い意味での違和感と、同時に微細《カスカ》なシンパシーを覚えた。ひとつにはどちらも、「以前に出逢ったことがある気がする」と感じていたのが理由だったろう。面白いのは、ソレをお互いが知り得ない点にあったと言って良いだろう。二人ともが何故だかそう感じていた。既視感《デジャヴュ》かも知れないと。

 それ以来、藍毅と「Q」のサイト上での交流は密度を増したものの。この数ヶ月は『特別な用事』に忙しかった。「しばらく連絡は取れない」と彼女宛てのコメントをしたのが5月の終わりだったことを、藍毅は失念《しつねん》していた。しばらくと言うのは方便であっって藍毅は、二度と彼女に接触することはしないと決めていたのだが、結果としては彼女のほうが連絡不能となって「スミス」を心配させているという次第《しだい》のようだ。

 藍毅はつい先程からの自分の過去を、ひとつづつ振り返らねばならない必要を感じた。それは真夜中に、無音の樹海を独り、さすらう事に似ていた。

「オイ、聞いてるのか?」

 「スミス」の声に彼は無反応だった。彼は今、深く入り組んだ森の奥に迷いこんで、もう誰にも見つけられない暗い陥没穴へと、スッポリはまってしまった。その電話を握っているのは藍毅ではなく、誰かの抜け殻を模造した石像のようにただそこに立っているだけで、それこそ、ピクリ、とも動こうとはしなかった。

 「スミス」の電話はいつの間にか、音もなく切れた。

◆◆◆

 コレは復讐だ。正義など微塵《みじん》もない。そんなものの必要も感じない。藍毅《あいき》はゆっくりと息を吸い始める。音を立てずに。

 こういう時、リキミは全てを大なしにする。深い呼吸を緩やかに繰り返し、彼は体中の力を可能な限り抜いていく。目的に近づくのに必要な、歩く力以外の全てを。

 ゴム底の靴を履いているとき、彼は足音を立てない。それは彼の子供の頃からの特技だった。何の訓練をしたわけでもない。そっと歩く。それだけで自然にそうなるのだ。昔その特技が活きたのは「缶蹴り」遊びくらいのものだったが、まさか、それが彼の現在の行動にこれほど適した才能になるとは、偶然とは時折、奇跡に変化するものである。

 一歩、また一歩。藍毅は目的に近づいて行く。相手は二人連れ。まったくこういう手合いはいつでも二人以上で行動する。それは連中にとって本能的な行動システムとなっている。イマドキは「カラーギャング」と言うらしい。ずっと昔、彼が少年の頃にも、こういう類の連中は決まって二人以上で歩いていたものだ。本職のチンピラに、不良《ヤンキー》とか愚連隊《チーマー》とかいう連中だ。

変わらないな。と藍毅は思う。変わらないものは研究し、解明しやすい。

 もっともその二人は、とうにギャングなどという年頃ではなかったが。

 標的まであと一歩に近づいた藍毅《あいき》は、東急ハンズの白いセロハン袋から、ガサガサと長めの靴べらを取り出す。真鍮《しんちゅう》製でクラッシックなデザインの柄《え》と、その先にユリの花があしらってあり、長さも50センチ弱はある。ガーデニングが趣味の家の玄関にあるような靴べらだ。足音は消しながら、ガサつかせたのはワザとだ。突然後ろで耳障りな音をさせ標的の心情を負の方向に傾ける。それが、近づくきっかけになるのだ。

 標的たちを三歩追い抜くと、彼は立ち止まり膝をまげ、靴べらを右足の踵に差す仕草をした。後ろから二人連れの一人が舌打ちをした。邪魔だ。という意味だ。先ほどの心理効果があった。あと一秒あれば、そう怒声が飛んできただろう。しかし、その時間を藍毅は与えなかった。右手をスイと翻《ひるがえ》し靴べらを踵から抜くと、左右のつま先を軸に右回転で後ろを向き直った。その時には既に、靴べらの先端は頭上にあり、彼はスッとそれを前方に差し出す。へら、は男の首筋を捉えた。彼は撫でるようにとても柔らかく、だが素早く右から左斜め下に腕を引く。

 瞬間、藍毅の鼻からは多量の呼気《こき》が放たれた。

「フンッ」

 音に訳せばそうなる。

 へら、は男の首筋をなめらかに滑り、頚動脈《けいどうみゃく》辺りを裂いた。ここまでに経過した時間は 2秒ほどだ。

 引き切った右手を左肩に合わせ、藍毅はテニスのバックハンドのように今度は水平に近い角度で伸び上がりながら振り抜く。その軌道は女子新体操のリボンが舞うのに似ていた。反動で後ろ足が前に出る。勢いに体がくるり、歩いていた方向に向き直っている。すると隣の男の首筋にも、先ほどの男と逆位置に同じ裂け目が現れていた。

『剣は蛇の如く静かに這うべし』

 藍毅は十分な手ごたえを感じていた。

 真鍮製の靴べらの重さは1.4キロ。へらの丸い最先端以外の両側は、カミソリ並みに研いである。刃渡りは48ミリ。最近改正された銃刀法には触れない。それでも、皮膚と血管を斬るには十分な性能があった。あとは技術の問題だった。それは訓練によって解決できる。事実、結果は伴《ともな》っている。

 合計所要時間 4秒強。あと 2秒ほどで周囲の人間が彼らに注目し騒ぎ出すだろう。しかしここで慌てて走り出したりしてはいけない。まるで何も知らなかったように、そのまま前に向かって歩けばよい。彼は道玄坂《どうげんざか》を下って行く。 2秒以内に前方の群集と同化するのだ。それらが振り返れば、自分も何事かと振り返る。だが歩みは止めない。

 ここまでの間に靴べらは東急ハンズの袋にしまう。あとは次の路地(ケンタッキーフライドチキンの手前だ)を曲がり道玄坂《どうげんざか》を逸れ百軒店《ひゃっけんだな》へ入る。

 ビジネスバッグからダサいジャンパーと折り畳んだテニス用リュックを取り出し、スーツの上着と、靴べらと、ビジネスバッグを放り込む。ヨネックスの白いキャップをかぶりグレイのジャンパーを羽織る。リュックは片掛けに背負う。それらを歩きながら行う。

 二、三回、角を曲がるついでに「いかにも」なスポーツサングラスを掛ければ、先ほどまでの紺のスーツに茶色の安いファブリックのカバンを提げた、うだつの上がらない会社員風中年男は居なくなった。

 あとにはセンスの悪いテニス好きのオジサンが居るだけだ。ちょっと平日の渋谷には場違いだけれど、桜丘町のテニス・ハウス・エディに行こうとして、方向を間違えたといった風情《ふぜい》を装いビルとポケット地図帳を眺めておけばいい。なんなら制服警官に店の場所を訊ねたっていいくらいだ。

 まだ、サイレンは聞こえない。救急車もパトカーも「しん」と息を潜めている。

 ホテル街やライブハウスやらの通りを蛇行して、ぐるり。彼は渋谷駅に戻った。時刻は17時を過ぎていた。

 そこには『シアワセ実現党』のTシャツを着た若者たちが、不器用にビラ配りをしていて、人々はまるで難を避けるように急ぐ。雑踏は変化を止めない。

 何気なく振り仰いだ 109ビジョン。画面に「マイケル・ジャクソン、急死」のテロップ。

 夏の陽はまだ暮れず、やがて遠くサイレンの音。

 藍毅に罪の意識はない。彼はひっそり確認する。

「コレは、復讐なのだ」


 ビルというビルの巨大モニターに「今夜はビート・イット」のビデオが流れ、そこでは彼が―― Just beat it,――とリフレインを繰り返し、絶頂期の彼のダンスを、もう、死んでしまった彼が踊っていた。

九【2】

 個人タクシーのラジオは、FM放送のバラエティー・トーク番組で、聞き覚えのあるメロディーを流していた。曲は 『Utada』の『メリークリスマス・ミスター・ローレンス- FYI 』渋滞に巻き込まれたタクシーの中で聴く音楽としては、悪くはなかった。

 この曲の冒頭のメロディーだけを聴いて、宇多田ヒカルを思う人は多くないだろう。しかし原曲のメロディー自体を知らないという人は、更に多くは無いハズだ。それが何という曲か知らないにしても。

 もちろん九も知っていた。首を右に傾けて、閉じたままの窓越しに空を見ながら、彼女はそれを聴いていた。もう夜も遅いのに空は、まだ紺色には沈みきっていない。 6月は一年で一番夜が短いのだという。そのせいなのだろうか?

 やけに目に付く赤みがかった大きな星がある。ずいぶんと明るい。あれは火星だろうか。そう九は思った。彼女はそれが木星であることを知らなかった。

 それにしても、まさか関越道の下り線が、所沢料金所を過ぎた辺りで渋滞するとは考えもつかなかった。今は 6月。スノーボードには早すぎる。車は動かない。彼女は深く溜め息をついた。

 そういえばラジオを聴いたのは久しぶりだ。それにタクシーというのはラジオを流しているものだっただろうか? 滅多に乗らない彼女にはよく分からなかった。

 彼女は今更ながら気がついた。古ぼけた外観《シルエット》だとは感じたが、走っていてもエンジンの音がしないし、外の雑音もほとんど聞こえない。車内の調度はタクシーというにはずいぶんな上品さで、クラシックカーにありそうな不思議な模様をした木目板が帯のように肩口を取り巻いている。シートもホテルオークラのラウンジソファーのように硬すぎず沈み過ぎない座り心地で、かなりの高級車らしかった。音楽の聞こえ方もボリュームは控えめなのにサラウンドみたいに3D的だ。

 九は、コレは本当にタクシーだろうか? と思いかけて、アイボリーの車体にボンネットの左側からテールに向かって引かれた青いラインを見やり、屋根の上にあった黄色いデンデンムシの行灯《あんどん》を思い出した。窓にも¥710 のステッカーがちゃんと貼ってある。

「あの、いつもラジオかけてるんですか?」

 彼女は運転手に声をかけた。そんな性格ではないのに、何故そうしたのかは自分でも分からなかった。

「あ、スイマセン、うるさかったですか?」

「いえ、そうじゃなくて・・・・・・ すごく静かな車だなって」

 運転手はホッとしたように顔をほころばせて答える。

「ああ、ええ、本来は VIPカーですからね。古いですけど」

 しわがれ声だが人のいい印象がにじんでいる。

「外車なんですか?」

「いえ、TOYOTA センチュリー VG40型と言います。古い車です」

「トヨタ・センチュリー」

「そう、21世紀の、世紀って意味のです。コイツとは20世紀から走ってます。もう25年くらい」

「そんなに?」

「ええ、たぶん、お客さんより年上かも知れませんよ。ハハハ」

「へえ、スゴイんですね」

 彼女は素直に驚いていた。車と言うものがそんなに長い間走り続けられるとは思ってもみなかったのだ。

 車内に親和的な空気が生まれた。

「ところで・・・・・・」と彼女は言いかけてためらった。

(ワタシはどこからこの車に乗りましたっけ?)

 とは、ちょっと訊きにくいことだった。運転手は怪訝《けげん》には思うだろうし、ラジオは「エフ・ワイ・アイ」とコーラスを繰り返しながら曲が終わり、ちょど静寂の間が空いたのも妙にタイミングが悪かった。

 パーソナリティーがしゃべり始め、それをきっかけにせっかくの会話もフェードアウトしてしまった。

 「お聞き覚えありましたか、皆さん? ソーです。 いまから26年前。教授こと、世界の坂本龍一が作曲。1983年5月1日にリリースされたサウンドトラック。イギリス アカデミー賞作曲賞受賞。映画『戦場のメリークリスマス』そのテーマ曲をフューチャーし、Utada自身の詞と、新しいメロディを載せて歌ってるんですねー」

 よく聞く声だ。耳に残る独特のしゃべり方。

「アメリカではiTunesのダウンロードと、CDの発売がおよそ2ヶ月ずれたにもかかわらず、2009年5月30日付のビルボード200では、なな、ナント。69位!」

 そのパーソナリティーが興奮気味、と言うよりは、わざとらしく抑揚《よくよう》をつけて大げさに解説していた。

「日本人がビルボード100 以内に入るのは、実に23年ぶり。 日本人アーティストとして、100位以内に入った、7 人目、という記録を残しました。グレート! です」

 たぶん、マイクの前で両腕を広げて叫んでいるに違いない。まるでヨガボールを抱えたみたいに。

「ソーなんです! 凄いんです! 世界の坂本、セ・カ・イ・のU・ta・da! 時代を超えた、このスーパーコラボレーション。いやー素晴らしいじゃありませんか! うーん。ブラボー!」

 パーソナリティーはウタダの「タ」だけを高く発音した。音程でいえば「ド」から「ソ」へ飛んでひとつ下の「シ」に着地したような感じだった。

 このワザとらしさ。うん、間違いないアレの声だ。と彼女は思う。そのフレーズだけは、誰でも物まねができる。(名前はなんだっけ?)顔まで思い浮かぶのに名前が出てこない。

 彼女は少し悔しかった。コレに限らず、知っているのに思い出せない事が、日常的に頻繁にあるのだ。そういう事がある度に(自分は頭が悪い)彼女はそう思ってしまうのだ。でも。実際、そのパーソナリティーの名前を思い出したところで、何の役に立つわけでもない。

 (とにかく、コイツは「ソーなんです」なんだ) 

 そうしておいて話の内容のほうに気を移すことにした。

 彼女はその映画を一度だけ見た覚えがあった。ビートたけし、と坂本龍一とデヴィッド・ボウイがでていた。公開は1980年代の前半。その何時《いつ》だかまでは知らない。

 ただ。1984年の夏。

「戦メリが、今年放送予定です。吹き替えはどうなるんでしょうね」

 と坂本龍一が、自分のラジオ番組で話していたのを、何故だか記憶している。映画館で見てはいないから、そのテレビ放映を見たのだろうと思う。たぶん、日曜洋画劇場とか、金曜ロードショーとか、そういう番組だ。

(ウチは、何でそんな事を知っているんだろう?)

 彼女は考えた。自分は2009年の今年、22才になったばかりで1984年にはまだ生まれていない。母親の胎内にも存在していなかったハズだ。恐らく父親の精子の中にも自分の片鱗さえ見つけられないだろう。在るとすれば、可能性としての遺伝子情報くらいのものだ。そう思った。その時代に父と母が出逢っていたかどうかも、自分は知らないのだ。

 だいたい、坂本龍一の名前くらいは知っているが、白髪の長髪で小難しいピアノを弾くオジサン、くらいの感覚と知識しかない。映画を見たのは、きっとテレビなんだろう。けれどラジオは聞けるはずがない。何の勘違いなのだろう?

 彼女の思索をさえぎったのは、先ほどとは打って変わったラジオの声だった。

「さて、本日何度もお伝えして来ましたが、日本時間の今日。6月26日金曜日、午前6時26分。アメリカの歌手、King Of Pop.ことマイケル・ジャクソンさんの死亡が確認され、そろそろ18時間が経とうとしています。ワタクシも、まだ信じられない気持ちでいっぱいです。本当にもう、彼には会うことは出来ないんですね。残念です」

 あのパーソナリティーが、低く、慎ましく告げた。

「お届けする曲は1995年。ビルボード100史上初の、初登場1位を獲得し、ギネス・ブックにも認定されたベストヒット。たくさんのリクエストが届いております。“マイケルに贈る歌”としてこれ以上の曲はないでしょう。Mr. Michael Jackson 永遠に」

 彼は一息ついた後。曲名を、一語一語区切って言った。ゆっくりと。

「 You   Are   Not   Alone 」

 静かな車内にマイケルジャクソンの声がしっとりと流れ始めた。

 2009年 6月26日。中学時代からの友達が渋谷で結婚式を挙げて、宇多田ヒカルがアメリカでヒットを記録した事を知り、歌詞の間に「ホー」とか「ヒー」とか奇声を上げてカクカクとダンスする、作り物みたいな顔をした白い肌の黒人歌手が死んだ。

 九はそう頭の中に今日という日をまとめてはみたものの、たぶんこの先思い出すことはないだろうし、その必要も無さそうだと感じている。彼女は世の中のニュースや数値を覚えるのが、子供の頃から苦手だった。社会に出てからも、歴史や数学の公式を覚えている人に逢う度、彼女は不思議でならなかった。どうしてそんなものを覚える必要があるのだろう?

 彼女にとって大事なのは、好きなテレビドラマの録画を忘れないことや、ジャニーズのアイドルグループのコンサートのために休暇を取る事。友達と行くディズニーランドや旅行の予定だった。

 それはいつも、これから先の話であり、そのうちの幾つが思い出になるかな? くらいのもので、自分の人生に影響のない過去など記憶に値しない事だった。もちろん友達の結婚式はそこに含まれていない。それは彼女自身にとっても良い思い出となるべき事柄だった。

 それにしても。

 と、彼女は思う。今日はもっと大きな事が、何かがあったハズなのだ。

 そして、自分がなぜ電車ではなく、タクシーに乗っているのか? ということが、どういう理由《わけ》か思い出せないでいる。

(ウチはそこまで頭が悪かったのだろうか?)

 彼女は再び、ため息をついた。

「ほぅ」

‐藍毅‐【2】

 藍毅はビクッと全身が大きく収縮した。急激な落下感。

 100 階建のビルの屋上で寝そべって、気持ち好く陽向ぼっこしていたら、いきなりビルが消えて、真っ逆様に落とされたような感覚に襲われた。

 意識が現実を認識するより早く、何かが体の上に覆いかぶさって来た。彼は更に驚き、反射的にそれを腕で払い除ける。

 半瞬の後、理解が追いついた。自分はベッドの上に横たわっており、突然バネ仕掛けのように弾けた。そして跳ね上げられた布団が落ちて来たのだった。

 手のひらと腋の下がじっとりと濡れている。肩と首筋が強張っている。Tシャツが背中にべったり貼り付いている。

 また、だ。

 もう何ヶ月も前から続いている悪夢だった。そう。ヤツらを見つけてしまってからずっと。しかし実際に事を起こしてから、刻一刻と、時間が経てば経つほどに、現実感は増して、生々しい感触が手の中に蘇《よみがえ》る。刃が薄紙のように皮膚を裂き、肉を斬り、血管を破る。そのわずかだが確実に伝わる手応えは、現在《イマ》この手に存在している。

 自分は人を殺した。彼は再確認する。それが紛《まぎ》れもなく事実であること自体もだ。

 後悔はない。25年も憎み続けたヤツらに、罪を贖《あがな》わせる。そのために生きて、そのためにだけに、好きでもない技を磨いてきたのだ。良心の呵責《かしゃく》などないはずだった。

 PTSD、心的外傷後ストレス障害。通常では有り得ない強烈な体験や、異常な環境に置かれた場合、多くの人が引き起こす障害である。悪夢、現実忌避《きひ》からくる短期記憶の欠落など、多数の症状がある。

 また、被害者や当事者でなく、例えば戦争や事故での目撃者などに、同様の障害が現れる『巻き込まれ型ケース』も多いことが知られている。

 藍毅《あいき》の場合。なまじ無事に逃げ延びたばっかりに、逆に悪夢という形で徐々に蝕まれ、追い詰められていた。もちろんこの時点の彼は、PTSDなどというものに気づいてはいない。ただ未知の経験をしたという意味で知ったに過ぎない。

 いくら仇《かたき》とは言っても『自分の意思で(結果的に)無抵抗の人間を虐殺した』という事が、狂人以外の精神を平静にはしておかない。藍毅は生まれて初めてそれを経験《シ》った。

 時計は午前 0時を差している。今夜はもう眠れそうになかった。

 台所の窓を開ける。その真上の天井から戸棚はぶら下がっている。藍毅《あいき》は扉を開け、名ばかりのスコッチウイスキーを、(彼はバーボンが好きではなかった)冷蔵庫の製氷皿からは氷を取り出す。氷をグラスへ投げ入れ、スコッチを注ぐと、仕方なく、という具合に喉に放り込んだ。。今夜は 2度目の杯《グラス》だ。

 自室に戻ったのが19時半ば過ぎ。それからウイスキーを煽る様に飲んだ。祝杯と言えなくもなかった。不慣れな一日の疲労と酒の酔いに、眠りに落ちたのは一時間もかからなかったろう。だがそれも 3時間あまりで遮《さえぎ》られた。もう一度グラスを口に運び藍毅は考えた。

 僕が気に病む必要はない。

 藍毅は自分に言い聞かせる。ヤツらが死んだところで世の中はたいして変わらない。そう、ヤツらが車でひき殺した恋人の、その死のあとにも、世の中は何も変わらなかった。

 ヤツら自身も何も変わらなかった。無免許で飲酒運転の上ひき逃げ。当時14才という理由で少年法が適用された。無意味に人を殺しておきながら刑事罰は科されなかった。

 少年鑑別所で収監仲間から、互いに新たな犯罪手口を仕入れ合い、より悪辣《あくらつ》になった上、わずか 2年で放免。街に戻って一年、18才で早くもあちこちの繁華街《マチ》の年少《コウハイ》たちの覇王《はおう》として君臨していた。

 王は手を汚さない。

 彼らが刑法適用の年齢になった事を知っていたのも、卑劣な動機のひとつだが、手を下さないからこそ王なのだ。

 あの日から25年。20世紀が終わっても、いまだに街の悪童たちから上がりを(本職に睨まれない程度に)せしめ、遊んで生きていたのだ。毎夜、他人《ヒト》からせしめた金で飯を喰らい酒を飲み、金で女を釣っては騙し、十分楽しんでから再たび金にする。

 もし、藍毅が彼らを見つけなければ、法律も世界も、まだ彼らを赦《ゆる》し続けたことだろう。今までの経過から藍毅にとって、それは疑う余地のない事実だった。

 運のツキ。

 ヤツらにとっても、僕にとっても。ただ、ツキの意味がちょっと違うだけだ。

 僕が気に病むことはない。

 藍毅《あいき》はもう一度、自分に言い聞かせ、一気にグラスをあおった。窓の外はまだ明るい紺色を保っている。

 

 ウイスキーを飲み下す喉の音が、部屋に低く響いた気がした。

 やけに大きく。

 だがそれは、携帯のバイブレーションがグル―ヴィーにテーブルを鳴動《めいどう》させる音だった。

「Qがいなくなった」

 電話の中から「スミス」は挨拶もなく言った。

九【3】

 ◆◆◆

 「お客さん、三芳パーキングの出口を降りるんでしたよね?」

 すっかり動かなくなった渋滞の中で、運転手は九に言った。

 シートと窓にもたれ、ぼんやりと『考え事』をして、同じようにすっかり動かなくなっていた彼女は、ばね仕掛けのようにその声に身を起こした。

 「え? あ、はい、そうです。あそこに出口できたんですよね? 家《うち》はそこからスグなんです」

 「ええ、できたばっかりです。昔はあの辺行くには、所沢インターで降りて裏道に入らなくちゃならなかったんですけどね。今は便利になりました。ただ」

 運転手はそこで言葉を切った。

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 「ただ?」

 「それだけに、こんな状態になると、短い区間なだけに、雪隠詰めみたいになってしまうんです」

 「セッチンヅメ?」

 「ああ、スイマセン。分かりませんよね、古い言葉なんで。つまり、狭いトイレに押込められて、鍵を掛けられたみたいだってことです。閉じ込められて出口がない。天井を別にすればですが。しかもこんな真夜中にです」

 「閉じ込められた?」

 「たぶん、これは事故渋滞です。高速道路情報のラジオサービスエリアにはまだ入っていないので、確実な事は分かりませんが、まず間違いなく三芳と所沢間で事故です」

 「いつまでかかるか分からないって事ですか?」

 「ええ。こういうのって意外と時間がかかるもんなんです。パトカーか救急車が来るにしても、ここでは後ろからしか来られません。もし路肩を走っていたバカな車がいたら、そこで盲腸です。行き止まり。パトカーさえどこにも行けない。トイレにだって行けない」

 「ああ」九は顎をあげた。ちょうど肯く動作を逆にしたように。

 さっきからセッチンヅメだの盲腸だの、なんでそんな変な事ばかり言うのかと不思議に思っていた九は、ようやく合点《がてん》が行った。運転手の言わんとすることが理解できたのだ。彼は彼なりに気を使って言葉を選び、遠まわしに打診していたのだった。 同じサービス業でも、自分の職種とはまた気遣いが違うものだなと、九は感心しながら応えた。

 「ワタシなら大丈夫です」

 「ああ、それは良かった」

 ホッとしたように運転手は言った。

 「いやぁ。実は提案をひとつしようと思っていたんですよ。ちょっとした裏技をね」

 「裏技?」

「ここから抜け出す方法です」

「方法があるんですか?」

「モチロン」 と運転手は微かに見える程度に口角を上げた。それはいたずらっ子が原っぱの秘密基地や木の上の隠れ家を自慢する時の顔を連想させた。もっとも現実に九がそういう子どもを見たことは一度もなかった。それは大概がテレビで見る外国の映画の中の子供だった。

「見ての通り、この場所は道路を平にするために丘を削って谷にした所です。だから両側はコンクリートの向こう側に何が存在しているか見えない。でもその上は普通の家や道路、この辺は畑だってあります」

「そうですね」 九は頷いた。

 確かにそうだ。高速道路がワザワザ台地を削って作られたとは知らなかった。なるほど、車も人間も、馬だって(時代によっては)早く走るには、坂道より平らな方がいいに決まっている。そう言えば家の近くの関越自動車道の周りは、工場か、林か、畑ばかりで、その向こう側に深い河みたいな高速道路があることなんて普段は全く気にしていない人がほとんどだろう。自分の車を持たない九にとってはなおさらだった。

「車はここから出られません。当分。だから、これはもしもの話なんですけど」 運転手は続けた。

「お客さんの家が、三芳パーキングから歩いて帰れるほど近ければ、出口はあるんです」

「ハイ?」

 彼の口調がさっきまでと少し変わって、言葉の脈絡が微妙におかしい。「近ければ方法はある」 ではなく「出口はある」 彼はそう言った。

「ここから100メートルくらい先にバス停があります」

「バス停?」

「今は待避所になっていますが、関越が作られた当初は、高速バスの運営を目的に作られたバス停だったんです。もっとも過去一度も使われたことはありませんがね。バス停としては」

九は返事の仕方が分からずに黙っていた。運転手はさらに続ける。

「そのバス停にはこの壁を登る階段がついています。ちゃんとしたコンクリートの石段です。神社の階段みたいなもんです」

「はあ」

「その上には、たった1メートルの金網が張ってあるだけです。前も後ろも、この道に沿ってずっと。子供だって乗り越えられる」

「それは、ここで降りて歩けってことですか?」

「オススメはしません。ただ道がつながっていなくても、物事は案外近くに在ることも有るんです。電車で15分、徒歩1分なんてね」

 遠くにサイレンが薄っら聞こえ始める。だがボリュームは一向に上がらない。FMラジオからは無味無臭、と言うこと以外、まるで印象に残らない交通情報に特有の小奇麗なBGMが流れ、そして告げた。「関越道下り線、三芳パーキングエリア手前で人身事故。新座料金所まで5キロの渋滞」 運転手の言ったとおりのようだ。

「本当にバス停があるんですか?」

 九は確認した。

 ええ、本当にありますとも。標識は立っていませんけどね」

 夜の高速道路で車を追い抜いて歩くと言うのはどんな気分なのだろうか。彼女は思う。一生のうちに有るか無いかの経験になることは間違いなさそうだった。初夏の夜だ。別に真っ暗なわけじゃない。九は運転手の提案を受け入れた。

「ここで降ります」一万円札を渡し幾らかのつり銭を受け取るついでに、ようやく聞きそびれた質問をぶつけることができた。

「ボーっとしてて忘れちゃったんですけど、ワタシ、どこからこの車に乗ったんでしたっけ?」

 注意深く選んだもっとも不信感の生まれそうにない訊ね方のつもりだった。

「渋谷の東急本店、いやオーチャードホールの所でしたね。10時過ぎでした。前のお客さんを降ろしているところにアナタがやってきたんです」

「オーチャードホール。ああ、そうでしたね」 九はそうそうとばかりに頷いてみせた。

「でもお客さん、コンサートホールに行ったんじゃないでしょう? その服は結婚式の格好ですよね」

「分かりますか? スゴイですね」

「いや、はは、これでも長年の客商売ですからね。はは。ご乗車ありがとうございました」

 運転手が例の人の良さそうなしゃがれ声で言うと、スッと自動ドアが開いた。目にとまったタクシーカードをドアの袖から一枚取り、彼女が道路に降り立つと、高級車らしい「カボッ」という重そうな空気の音。それは宇宙船のハッチが閉まったかのようだった。

 いつの間にか助手席の窓が降りていて、運転手の声がした。

「お疲れ様でした。『今日は変わった一日』でしたね。ではお気をつけて」

「ありがとうございます」彼女はそう応じた。確かにこんなところを歩くハメになるなんて今日は変わった一日に違いなかった。

 蒸っとした暑さがすぐに彼女を包み、かっちりしたセミフォーマルスーツの上着を脱がせた。光沢のある白のブラウスは豊満な胸を強調していた。

 九は軽く伸びをする。空を見上げる。月はない。雲が多くてほとんど星は見えないが、さっき見た赤い星が、壁に隠れそうなくらい端っこの方にやっと見える。彼女はそれを目指すように靴音高く歩き始めた。

 周りから視線が飛んでくるのを感じる。それを無視してどんどん車を追い抜いていくと、ちょっと得意な気分になってくる。

 やがて分離帯が道を隔て、左に膨らんだ車線の先に歩道らしきスペースが十数メートル分あった。バスのプラットフォームだろう。九がその上に立つと、歩道の中央に人2人分ほどの階段が、ビル5階建てくらいの高さまで真っ直ぐ伸びていた。

 彼女はコツコツとそれを登りつめる。すると本当に緑の金網があるだけだった。公園や学校のまわりに必ず有る、なんの変哲もない金網が彼女の胸の高さで左右に続いている。

「よっ」

 九は適当な網目につま先を突っ込み踏ん張ると、バックを向こうに投げ腕と脚とで体を持ち上げる。更にもう一方のつま先を一歩上の網目に差し込み金網を跨ぐ。注意しながらゆっくりと反対側へ降り立つとバックを拾い上げた。

 眼下に今歩いてきた高速道路が見える。渋滞でピクリとも動かなかった関越道。

 それを見下ろす彼女の目には、轟々と音を立て走り去って行く車のライトの跡。サイレンも聞こえない。

「エッ?」

 あのトヨタセンチュリーV40型タクシーも煙のように消えて、もうどこにも見つからなかった。

 いったい何が起きたのだろう。金網を越える間に渋滞が解消したのだろうか? 彼女はカクンと頭を後ろに倒し「そりゃーないよ、あんまりだわ」と悪態をついた。その視線の真上に、あの赤い星が見えていた。

 何か変だ。(だってあの星はもっと下の端っこにあって、あれ?) 再び彼女は驚く。空が綺麗に晴れているのだ。雲が全くない。そして赤い星のあった辺には、どこにもなかったはずの月がぽっかりと浮かんでいた。

 下弦の月が。

 九はまた『考え事』が増えてしまったと独り顔を歪めて、今一度、今日を確かめてみる必要に駆られた。

 大事な友人の結婚式を終え、二次会が始まる前に一度会場を出た。たぶん17時より少し前だったと思う。

 他の出席者に幾人かの知り合いはいたが「あら、久しぶり。どうしてた? 今何やってるの?」

 誰もが同じセリフを同じイントネーションで声を掛けてくる。

「うん、久しぶり。元気よ。アナタも元気そうね? 会えて良かったわ。今は金融関係の仕事してるんだ。だから詳しくは言えないけど、普通にOL」

 と、彼女も同じセリフを人毎に繰り返し、後は相手の話に相づちを打つ。

 勤め先はれっきとした会社でも、中堅消費者金融会社のカウンター業務では、サラ金嬢と呼ばれるの明らかだ。彼女でなくとも、それはゴメンだろう。会社でもプライベートで身分を明かしてはならない規則がある。つまりは、そうする以外になかったのだ。

 ひと通り顔合わせを済ましてしまうと、九には他に話題も持ち合わせがなかったし、温めるべき旧交よりは、時間の方が多過ぎた。実りのない「またね」の繰り返しに疲れもした。少し外の空気に触れたくなったとしても当然だろう。

 問題はその後。自分がどのように過ごしたのか。別に酔って記憶がない訳ではない。乾杯以外に彼女は酒類に口をつけなかった。

 九はアルコールを好まない。なのに、この数時間の自分が思い出せない。

 トイレにはいつ行った? 化粧直しは? 二次会には出た? 誰かと一緒だった? 食事は? 帰るにしても、円山町から渋谷駅に行かず何故逆に向かったのか? 渋谷駅まで歩くのが面倒なら、すぐそばに京王線の神泉《しんせん》駅だってあったのだ。

 背中合わせの東急本店とオーチャードホールは、どちらの駅よりも、だいぶ距離を歩いて行くことになる。

 5時から10時まで5時間。どこで何をしていたのか、とにかく、あらゆる事が思い出せない。こんな事は今までなかった。

 そしてさらには、高速道路を歩き、フォーマルスーツのスカート姿でバリケードの金網をよじ登りまでしたのに、その理由となった大渋滞は、振り返ったとたん、シャボン玉みたいに消えてしまった。

 パチン。

 まるで、この世からどこか知らないセカイへ、遠く放り出されてしまったみたいだ。彼女にはそう思えた。またため息が出そうになる。

 その時だ。

「あッ!」

 彼女の叫びはまだ脳神経の途上にあった。声になる時間がなかった。

 真っ白な痛さが眼を灼くように、九の視界を占領している。

 彼女の立っている一車線しかない狭い側道を、高速道路でさえも違法な程のスピードで暴走する車がそこにいた。

 反射的に光を右手で遮る。しかしそれよりも、彼女は先に体を避けるべきだったのだ。夜の中で視認性の低い赤い車体は、もう彼女に触れんばかりの位置まで迫っていた。

 不意に九は背中からアスファルトに投げだされた。後頭部を堅い何かにぶつけたのか、視界が一瞬で黒く収縮した。白い星型が目から飛び出して見えた。そう感じた刹那《せつな》背中も胸、肩、腹部に致るまで、骨も何もかも、砕けたとばかりの衝撃と、激痛、鈍痛、穿痛《センツウ》涛痛《トウツウ》(そういう言葉があるのならばだが)。

 とてもこの世のものとは思えぬ痛みが肉体《カラダ》中を電撃のように疾走した。「爆発的に痛い」としか形容のしようのないそれだった。

 息を吐くことも、吸うこともできない。気を失い損ねたことも返って、より深い災難だった。 とにかく、とてつもなく痛い、痛い、痛い!

 「下手くそ! テメエが死にやがれ!」

 どうにか意識が微かに安定し始めたときそれが聞こえた。

 少年の怒鳴り声らしかった。

 ようやく呼吸が戻ってきた。痛みはまだ爆発の残響のように残っている。九は自分が死んだかと思ったが、どうやら違うらしい。

 戻った視力の目に映った黒い人影は、野球ピッチャーのポーズで何か投げ終えたようだった。爆音がずいぶん遠い。あの車は去ったようだ。

「危なかったな、轢かれるとこだったんだぜ? 大丈夫?」

 それはやはり高校生くらいの少年の声だった。子供に毛が生えたというのが、まさに相応しい高めの、少し鼻に抜けたいい感じの声だが、美声に三歩手前といったところだ。そしてまだ、男性を感じさせる成分が、かなり希薄な印象だった。

 「だ、い、じょうぶ……」

 九はやっと応えることができる程度に平静を回復し、ゆっくりうつ伏せから身を起こした。

「俺がいなかったら絶対死んでたぜ。ええと、キミ……はさ、だよ」

 純情《ウブ》な質《たち》らしい少年は、女慣れしていないようで、口ごもるような言い回し。

 九は苦笑いと苦痛を隠して立ち上がりながら言った。

「お礼、を、言う、べきなのは…… 分か、るけど、(っ痛)ありがと、とは、絶対言いたくない程、(てて)酷い、目に、あったわ…… フゥ。助かったけど」

「だってしょうがないだろう、あのタイミングにしか間に合わなかったんだし、声でどうにかなる場合じゃなかった、危ないって言った時にはもう、跳ねられてたぜ、アン…… キミはさ」

「もう少し他に方法はなかったわけ?」

「まさか、ひっくり返るとは思わないよ、あんなに派手に。尻餅くらいはつくと思ったけど。腕引っ張っただけだぜ? 俺…… 僕は」

 ようやく痛みが我慢できる程度に収まった九は安堵した。と同時に膝がガクガク笑いだした。U字溝のふたをの縁を一歩越えたとたん、雑草の上に今度こそ本当に尻餅をついた。金網にかけた右手が震えている。いや、全身が。

 今更ながらに恐怖が込み上げてきたのだ。車道と金網の間は人一人分の幅しかない。U字溝を含めて60センチあるかないかだ。 本当に間一髪だったのだと、彼女は今、それを肌で理解した。

「ねえ、本当に大丈夫?」

 少年の問いに「ありがとう」と、振れの大きなビブラートで彼女は応えた

 少年は、それが二つの意味の言葉であることを、ちゃんと感じ取って、彼女の肩をポンと1度だけ叩くと、同じように隣の草の上にしゃがんだ。

「どういたしまして」

 背中を金網にもたせかけ、彼は言った。

 空はくすんだ藍色だがよく晴れている。ひときわ明るい木星が、だいぶ高く昇って金色の光を放っていた。やはり赤味がかってはいたけれど。

 少年はそれを見上げ、九は左流しに折った膝小僧を、まだ見つめていた。どちらも声を出さない。時折聞こえる呼吸音、そして虫の音《ね》。

 二人はまだ、互いの名前も知らない。

 けれど沈黙は、初夏の夜風よりも、優しかった。とても。

藍毅【3】

◆◆◆

 TVのニュースは政権交代だの派遣切りだのの合間に、二つの死の話題を伝えていた。ひとつはマイケル・ジャクソンのことであり、もうひとつは渋谷で辻斬り発生というものだった。時刻は朝5時。

 藍毅が注目すべきは後者のニュースだったが、意外に公開された情報は少なく、今後の彼の行動方針に影響を与えるようなものは何もなかった。

 分かったことはヤツらが確実に物理的に死んだことと、犯人の目星はついていないと警察が発表したことだけだった。

 もちろん彼は報道の半分を信じていない。この国の警察は殺人事件に関しては相当高度な捜査力を発揮する。

 完全犯罪などというものは存在しない。完全な裁きが存在しないのと同じように。

 藍毅はそれを知識と皮膚とで理解していた。いずれ自分の前に警官が列をなして現れることは、彼にとって始めから既定の事だった。

 藍毅はただ、あの時あの場所で、現行犯逮捕されることさえ避けられれば良かったのだ。

 どこの誰だかも分からない相手に、理由《ワケ》も解らず命を奪われる。それが、どのようなモノなのか、という事をヤツらに思い知らせてやりたかったのだ。昔、ヤツら自身がそうしたように。

 それでも彼は、一秒でも長くその時が続くように、やれる事は全てやっておいた。

 自室へ戻るまでの間に、先ず渋谷駅にある東急東横デパートのスポーツ売り場に行き、(テニスウエアで他に行きようがないし、何よりトイレが空いている)一番近いトイレでテニスバッグの中身を切り裂いた。

 スーツの上着。ファブリックのビジネスバッグ。ネクタイ。靴下。ゴム底で安物のビジネスシューズ。重ねてはいていたスポーツパンツを脱ぎ、下のスーツスラックスも、切れる物は全て細かく、小さく。

 そのためのハサミは途中のファミリーマートかどこかのコンビニで買っておいた。残ったのは着ているスポーツウエアとテニスバッグに靴べらだけだ。

 切り裂いた物は用意しておいたいくつかのコンビニ袋にバラバラに分けて、自分に関係のないいくつもの路線で途中下車を繰り返し、あちこちのコンビニのゴミ箱に捨てた。

 一番の難物は剣に仕立た靴べらだったが、それは持ち帰ってきた。研ぐには大変な手間だった真鍮の刃も、潰すのはわけもない。日曜大工のハンマーで事足りる。後は強力な漂白洗剤に漬けて錆させれば、ちょっといいアンティークだ。

 彼はわずか2時間でやってのけた。それが藍毅をあれほど疲れさせた理由だった。

 たった1日あれば物的証拠は全て行方不明になる。神様にだって簡単には探せない。もちろん僕にも。物証が上がらない以上、曖昧な目撃証言だけが警察の頼りだ。

 人は写真のように他人の人相を覚えているものではない。

 まして見ず知らずの人間を、一瞬すれ違ったぐらいで。何も問題はない。

 重い酔いの中で藍毅はそう考えていた。いたのだが。

 今、彼の考えるべき問題は在った。

 それで。




 Qはどこへ行った?





九【4】

◆◆◆

 30分は経ったろうか? それとも10分位かも知れない。体の震えもようやく収まり、彼女は立ち上がる。少年も合わせて立ち上がると言った。

「一人で、歩けそう?」

「大丈夫よ」

「そう…… どっち行くの?」

「あっち」

 九は右を指差す。

「同じだ」

 少年が言う。

「そう」

 なら一緒に行こうと彼女は言わない。どちらでも構わないが、見られたくないところを見られたというバツの悪さもあった。それにしても、近所にこんな少年が住んでいたとは全然知らなかった。見かけたことがない。近くの県立高校生ではないのかも知れない。

 2人は歩きだす。少年は自転車を押している。カゴにはラジカセを載《ツ》んでいた。(ずいぶん珍しいな)と九は思った。CDも付いていない、文字通りのラジカセだった

「少し、訊いていい?」

 少年が問う。

「なに?」

「えと、キミ、は、どっから来たのかな? その、あそこへ」

「どこって、高速のバス停から」

「バス停? あの階段のこと?」

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「そう。バス停じゃないの?」

「嘘だ」

 少年は語尾を子供っぽく伸ばした。

「だって、オ、僕、ずっとあそこにいたんだぜ? 赤いポルシェが通るのを待ってたんだ」

「嘘ついてもしょうがないじゃん。ホントよ。この年で、このカッコで金網を跨いだんだから、あ、破けてる…… 最低」

「サイテーって、何だか面白い言葉使いだね? き、キミは、さ。」

「無理にキミなんて呼ばなくていいわよ。いちいちドモルなら」

「じゃ、なんて? 僕は矢野。矢野藍毅。《やの・あいき》友達にはヤンて呼ばれてる。はじめはヤンキだったんだけど」

「確かにヤンキーってガラじゃないもんね」と彼の見たままを口にして、九は少し考えてから自分のファーストネームを告げた。

「アタシは理央《りお》」

 サザラシとはあえて名乗らない。説明が面倒だし、ちょっとの間話しをするのには、その必要もなさそうだったからだ。

「ヤンキーって何?」

「は?」

「今ガラじゃないって」

「知らないの? ヤンキー。んー。なんていうか、目吊り上がってて、人を怖がらせるのがウリな人たちよ。オラ、とか、テメー、とか、ッゾゴラ、とか言う人」

「不良ってこと?」

「いまどき久々に聞いたな、その言葉。まあ。そういうこと」

「それでさ」少年は話題を戻す。

「理央……さん、は、バス停からきたって言ったよね?」

「まだ言う? ソレ」

「やっぱ、変わった日本語だな。いや、えと、僕は時々あそこに行くんだ、ポルシェを見に。ってのはさっき言ったっけ?」

 九は黙ったままうなずく。

「でね、だいたい1時間位はいつも一人で高速を眺めてる。走っていく車をさ。時々ポルシェ911ターボが走ってくんだ。歌に出てくるような真っ赤なのがね。ソレがきた時の迫力ったらスゴイんだぜ!!」

 ヤン少年は一人興奮していた。九は相変わらず黙って歩いている。それに気づくと彼は改まって続けた。

「ただ、まわりに誰かがいる事なんて一度もありゃしない。いつも一人なんだ。だって、あそこは電灯も建ってない。真っ暗でツタの葉だらけで触るのも不気味だしね。何か変な虫なんか出そうでさ。夜は猫の子一匹寄ってこないんだよ。そんなとこにさ、“理央さんみたいな女の人”がいたら、オ、僕は絶対に見逃さないね」

 彼は九を特別に意識した言い方をした。綺麗な人、可愛い子、などとは言えないらしい。それにいまだに一人称が、オレなのか僕なのか、ハッキリしないようだ。別にオレでいいのに、なぜ僕に言い直すのか。それが九は可笑しかった。

「だから、信じられないんだ。金網のテッペンからいきなり目の前に、白い女の人が現れてさ。天使が降りてきたかと思ったよ。馬鹿みたいに」

「天使!!」

 とうとう九は吹き出した。いくら子供っぽく見えると言っても高校生には違いないだろう男子が、天使が降りてきた、とは笑わずにいられる方がどうかしている。

「ヤン。キミ面白いよ、いいセンス」

 バンバンと彼の背中を叩き、彼女は声と、顔を上げて笑った。その先にまたあの赤い星があった。九はこの数分の出来事で、本来の疑問を忘れかけていた。(何かが変だ)という事をだ。

 思わず振り返ると半月が後ろから照らしている。九は不意に神妙になってヤン少年に問う。

「ねえ、さっきまで曇ってなかった?」

「今日は夕方からずっと晴れてるよ」

「変な事訊くけど、今日は6月26日、いや27日になったとこだよね?」

「え? それは来週でしょ? 今日、6月19日。いや20日か」

「2009年6月19日?」

「2009年? 何言ってんの? 理央さん大丈夫?」

 ヤン少年は自分のこめかみを指さして真顔で言った。

「そうか、さっき頭強く打ちすぎたからだ。ゴメン、ゴメン」

 彼は冗談のつもりらしかったが、九はそれに付き合っている余裕はなかった。(自分はどこにいるのだ?)頭の中でそれは声となって限りなく反射し、めぐり続けている。

「何年の6月19日? 今、何年?」

「何年って、昭和59年。理央さんそれ本気で訊いてるの?」

(昭和?)

 九は額から血の気が引くのを感じた。全くなんと『今日は変わった一日』だったことか。

「ほぅ」 いつものため息より早く、九の意識は暗転し、白い爆発光のような星型に収束した。

 トサリ。

 糸の切れた人形のように彼女は再び尻餅をついた。ヤンこと、矢野藍毅少年は思案の末、どうにかこうにか自転車の後部荷台に、文字通り彼女を積載《ツ》み、引きずるとも押すともつかぬ有様で自宅へと向かった。汗ビッショリの姿で。

 微速前進、ようそろう。


藍毅【4】

◆◆◆

 『見ず知らずで水入らず』

 これが何のことか聞いただけで判る者があるだろうか?

 時刻は20時過ぎ。2008年の12月24日。アトリエ・スミス(例の創作物投稿サイトの名称)のメンバー、うち8名は、クリスマス・イヴというのにワザワザ、そんな銘をうった、酔狂《すいきょう》なパーティーに集《つど》っていた。

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 ネット上の知人に過ぎない他人達である。にもかかわらず、それなりの集まりを見せたのは、10年近くもそのサイトを運営してきた「スミス」のコミュニケーション手腕もさることながら、この手のサイトには、すべからく『寂しがり屋』や『かまってちゃん』が多い。という必然の為《な》せるところだったかも知れない。

 街外れのとはいえ、れっきとした新宿のライヴBARをよく予約《オ》さえられたものだと、藍毅は感心していたのだが、さらに驚かされたのは、完全貸し切りだったことだ。自称。『社交的なヲタク』とやらは、実に侮《あなど》れない存在なのだと、藍毅は薄ら寒さすらおぼえた。

 カウンター内にはイマドキらしくDJブースも設《しつら》えられていて、パーティーの間中、少し古めのダンスミュージックやら小洒落たJAZZ、オールドロックに歌謡曲。果ては懐かしのアニメーション漫画主題歌まで、器用にミックスして鳴らすDJは大したモノと言うべきだった。

 しかし、それでもやはり、ぎこちなく始まった宴《うたげ》を、盛り上げたのは重ねた乾杯の数ではなく「スミス」の手前勝手な話題(ほとんどがコンピュータープログラム関連と時事的な話)の強引な押しと、凄まじい隠し芸(と呼んでよければ)だった。

 あり得べくもない事だが、フレッド・アステアやジーン・ケリー、サミー・デイビス・ジュニアらが見たとしたら、卒倒物《そっとうもの》の(ブリトニー・スピアーズやビヨンセなら手を打って爆笑したかも知れない)ダンス・パフォーマンスを彼は披露したのだ。

 そのでっぷりした体格のせいもあるのだが、どうひいき目に見ても、あのゴースト・バスターズの馬鹿デカいマシュマロ・マン(ゴジラ級雪だるまと言ってもいい)が、張ち切れんばかりのビジネススーツを着て暴れ周り、自己崩壊を起こした中から『大王イカ』か『巨大火星人』が、のたうって出現したシーン。としか表現のしようがなかった。

 空気を読む、とはまさにこの事で、おかげで参加者たちは大いに笑っていた。食事も楽しんだし、しゃべり飽きたら、或る者は踊り、或る者は歌った。

 藍毅の知る普段の姿からは想像もつかぬ彼の活躍は、全くもって目覚ましく、主催者たる「スミス」の面目躍如《めんもくやくじょ》と言えた。もはや酔狂と言うよりはスットンキョウと化していたが、パーティーとはそもそも、そういうものであるのだろう。馴染みのない藍毅にもそれは分かった。

 「スミス」が息を切らせ、雪崩さながらに椅子に崩れ落ちたのは、ちょうど曲がパフュームの「コンピューターシティ―」からエリック・クラプトンの「ビハインド・ザ・マスク」に替わったときだった。

「iくん」

 と、あえてハンドルネームを呼び「スミス」はにこやかに言ったものだ。

「俺は彼女の待つ部屋に帰らなきゃならん。さっきのウチのやつの顔はお前も見ただろ? 帰る当てのない彼女(Q)を連れて行けない。つまりは宜しくってことだ。後の事も含めて」

 少しも下卑《げび》た色なく言ってのけるあたりが「スミス」の経験値とクールさ、と言うよりむしろ、ドライさを感じさせる。実は藍毅より12才も年少なのだが、そうとは思えない態度は見た目以上に貫禄《かんろく》だ。

 自分に恋人がいない時期であれば、彼は藍毅にQを任せたりはしなかったろう。こういった集まりに、こういった事態の起こるべく可能性を「スミス」は経験《シ》っていたのだ。

 サイトに大した貢献もしていない藍毅を強引に連れ出したのは、それを考慮した上で、『根暗の独身中年』に機会を与えてやろう、という「スミス」なりの気使いだったかも知れない。

 それが藍毅《あいき》とQの初めての物理的な出逢いだった。

 同じ日の23時5分。新宿アルタ前。ワケあり気な男女がひと組。港湾の標識ブイのように留まるとも流されるともなく、人波に立っていた。

 男は細身のダークスーツで中年にしてはずいぶん若く見える藍毅《あいき》。

 女は煌《きら》びやかな髪色もなく化粧もナチュラル。かと言って地味でも、くたびれてもいない。誰が見ても20代前半のハツラツとした女性らしさを発散しているQ。

 黒目がちの大きな瞳は、顔全体の印象をどのようにでも司《かさど》ることができる核《コア》として、素晴らしく機能している。女優としての視覚的素養が、彼女には多分に含まれているようだった。その気になれば小悪魔でも、クールビューティーでも干物女だろうと、いくらでも演じ分けられるに違いない。しかし彼女の仕事柄か、生来《せいらい》の気質なのか、注意深く観れば、あえてそれを伏した感がわずかに煙《けぶ》っているのが分かる。

 若作りの中年男と貞淑そうな娘、といった組み合わせ自体に取り立てて違和感はない。周りにはもっと目を引くカップルが砂の数ほどもある。

 ただ、二人の間に在るべき親密さのような、或いは結合因子みたいなものが、まるで感じられない点で、周囲全てと異なる空気をまとっていた。その空々しさを彼ら自身、気づいていたのかどうか。

 藍毅がひとつ気になっているのは彼女の、その、姿に強烈な既視感の在る事だった。それが彼を、この夜のカップルにしては、勢いも情熱も感じさせない中途半端な態度に終始させているのかも知れないのだが、残念ながら彼にその自覚はない。

 今、彼の目に彼女の影はなく。映る物は、人がゴミのような無秩序と密度。それに同位かそれ以上の通信電波。ありとあらゆる手前勝手な音。神経にヤスリをかけるような喧《かまびす》しい光。究極の音楽とは詰まるところコレであるかのような、それら全ての混濁した不協。

 ここ数年、毎日耳にする長引く不況。とやらも、この日この時にあっては分子レベルまで無視《シカト》されている。そう言った景色だ。彼は見えないシネマスコープでそれをフレームに切り取っていた。

 景色の濃密さは、映画ギルバート・グレイプに出てくるジョニー・デップの母親(役)の280キロの巨体が、ファッションモデル用のスマートな、極薄いストッキングに無理やり押し込まれて膨らんだ映像を彼に想像させた。

 タイトルは「深く美しい醜悪なソーセージ」と言ったところだ。まったく、針の先どころか髪の毛で突ついても、東京が丸ごと破裂しそうだ。

 などと我が身の置かれた状況と、なんら関係のない事を頭に浮かべて、それを収拾する糸口を探してみたが上手くいかず、藍毅《あいき》は左右にかぶりを振った。

 せめてその馬鹿げた想像を、彼が口に出して語っていれば、彼と彼女にとっての事態は、もっとスムーズな進展を見せたのかも知れない。けれど、彼はそれをジョークとして優れているとも、面白いとも思ってはいなかったし、次にとるべき行動に判断を着かねた挙げ句、口をついて出たのは、あまりに実際的に過ぎ、彼女の耳に届かなかったのは、奇跡的な幸福と言うべき1グラムほども気の利かない放言《ほうげん》だった。

「さて、健全な宿を確保できるかどうか。よりによって、こんな日に」

 その時、彼は自分の性欲と憎悪について真面目に考えていて、彼女は、彼の行動と自身の衝動の、ふたつの真意とを、真剣に読み取ろうとしていた。

 ソーセージに感謝すべきなのは、彼らのどちらであったろうか。



 ともあれ、1時間余りののち。と或る私鉄沿線のビジネス・チェーン・ホテルにて、彼らはチェックインシートにそれぞれペンを走らせていた。

 ホテルマンはその空虚な二人連れに、ある種の緊張を憶えた。職業的な勘によるものだ。

「お部屋は4階の403号室でございます。ツインでよろしいのですよね?」

 と念を押す。

 この客には注意した方がよさそうだ。

 彼はキッカリ30度のお辞儀をし、視線を二人の足元に定めたまま、その洗練された柔らかな微笑みの下に、好まざる予感をひた隠して言った。

「ごゆっくり、お休みなさいませ。素敵な夜を」

「メリークリスマス」

 藍毅《あいき》が付け加える。

 静かにエレベーターのドアが閉まった。

  チン。


九【5】

◆◆◆

失神した自分がどんな状態でいるのかも知らないまま、

色も形も温度すらない蜜みたいな粘ったセカイに沈み込んだ彼女は、しっとりとした夏の終わり。2008年8月25日の雨に包まれた夜の中にいた。

そこでの彼女は左手をつり革にかけ、右手には携帯電話という、電車内の半分くらいの人々と同じポーズをとっていた。彼女の目にしていたのは、やはり多くの人と同じようにその小さな画面だった。違っていたのはそこに映し出されていたのが、ゲームでもメールでもムービーでもなく、奇妙な物語だったという点だ。

 アトリエ・スミス。イラストやポエムが主に投稿される、そのサイトに、初めて小説が掲載されたのである。彼女自身も高校時代には、知人には絶対に見せられない、気恥ずかしいポエムを投稿したことが幾度かあった。

 ペンネームはQ。何のひねりもないようだが彼女はそのペンネームを気に入っていて、Question 《クエスチョン》のQ。プロフィールには自らそう謳《うた》って、いまだに当時のままだ。

  そして、その物語の作者はiと名乗っていた。その辺りも彼女が注意を引かれたキッカケだったかも知れない。しかしそれ以上に心を奪われてしまったのはただ一行。

『セカイはすり替えられている。誰も気づかないうちに少しづつ』

 という書き出しだった。

『out of the world』

 と言う題名がつけられていた。読み終えるのに10分程の短い恋物語だった。冷たくひえた空気感と、切なさと喪失感に包まれた、自己陶酔形の文章だったが、何もかもが上手く行かない筋書きの、最後だけが奇跡的に救われる、その不自然な結末に、何故だか妙に説得されてしまった。

 九の現実生活において、恋愛話と言えば。

「ドコソコ店の女性店長が地域統括部長とデキて営業成績がいきなりトップよ! 振られたドコソコの店長はトップから最下位に転落だって」

 だの。

「この仕事してると、人間不信になるから恋愛に夢なんて持てなくなるよね。如何にもセレブ系ですって奴がさ、借りた物も返さないで、これ以上貸せないって言うと怒鳴り込んできたりさ」

 などと、まるで週刊雑誌の、嘘か誇大妄想小説かわからない記事を地で行く話ばかりなのだ。

 消費者金融という彼女の職業柄、笑顔で人の暗部を見続ける、過酷な仕事である。3年も経てば夢見る乙女も、人を見て電卓を叩くようにもなる。

 ならば初めから嘘と分かりきっているTVのアイドルに夢見続ける方が、よほど現実的と思えるのが自然であろう。

「不思議でした」と一言、彼女は感想のメールを送った。それが、iとの最初のコンタクトだった。

 その簡潔な物言いがiの方も気に入ったらしかった。つるべ落としの秋が、ぐんぐんと深まり、街中の街路樹の葉の緑を艶《つや》やかに拭き取ってしまう頃には、サイト内の掲示板で雑談めいたレスポンスをし合ったり、時にはメールのやりとりをするようにもなった。

 それらの葉が全て、きれいさっぱり枝に別れを告げてしまうと「スミス」曰《い》わくところの、有閑倶楽部へのインビテーションが全メンバーに出された。つまりは、クリスマスイヴに予定のない連中同士でパーティーをしようと言うのだった。

 九はすぐさま参加を決めた。理由は幾つでも挙げることができた。

 先ず好きなアイドルグループのクリスマスライブチケットが取れなかった事。そしてそんな日に誰もいない家で明石家サンタを見るのも嫌だった(母親は看護士で夜勤だったし、父親は単身赴任中、大学生の妹は中国旅行に行くのだそうだ)。

 何よりも、仕事絡みで男たちに、ありきたりに誘われるのはもっと嫌だった。上司にも同僚にも客にも(驚いたことに、借金に来ておきながらカウンターの女性営業社員を口説く男が案外多くいた)。

それと、すでにiが参加者として(「スミス」によりハッキリ強制参加と)クレジットされていた事。

 彼女にしてみれば、ごく真っ当な欲求に従っただけのつもりだ。この物語を書いたのが、どんな男なのかを見てみたい。果たして自分のメガネに、いや、電卓にかなう者かどうか? と。

 どうやらこの当時、彼女はまだ、自分自身の心の裏面を見ることには、長《た》けてはいなかったようである。

 ガックン。

 九は体に軽いショックを感じて、物理現実へ引き戻されると同時に。

「何コレ!!」

 エクスクラメーションを二つも付けて叫ぶのに、十分な理由がそこには在った。

 目が覚めてみると、彼女は自転車の荷台に横座りにさせられていた。だがそれは良い。

 問題は、白のセミフォーマルスーツを着たうら若き彼女の体が、サドルに跨ったヤン少年の背中に、脇の下からはタスキ掛け、胸の下から腹部にかけてはシェリー酒の樽《たる》でも縛るように、ぐるぐるぐるりと無作法に括《くく》りつけられていた事にあった。

 それも、寄りによって、買い物自転車にはよくある、あの、ゴム紐によって。

「あ、気がついた? 良かったぁ」

 背中越しに振り返ったヤンこと矢野藍毅《あいき》少年は、その訴えには気付かず、心底ホッとした様子で言った。

「救急車を呼ぼうとしてたんだ。途中に公衆電話も、家も一軒もなくてさ。理央さん落っことさないように運ぶのは大変だったんだぜ? でも気付いて良かったぁ」

 それを聞いて九は思わず言った。

「アンタ馬鹿ぁ? だったらケータイかければ済むじゃない!」

 彼女にしてみれば当然の感覚である。

「ケータイかけるって何? さっきから理央さんの言ってること、全然、意味わかんないんだけど」

 そう言われて、ようやく九は、自分が昭和59年という、見知らぬセカイに放り込まれていたことを思い出し、改めてゾッとした。しかし、このままでいるのはどのようなセカイであれ耐え難い。

「とにかく、コレほどいてよ、早く」

 ヤン少年は、もちろん、という顔をしてそれを外した。不本意極まる拘束を解かれた彼女は地面に降り立つと、目の前の景観に再び声を上げずにいられなかった。

「何、コレ?」

「ちょっと、何でアンタがウチにいるのよ?」

 この場合のウチとは彼女の家を差しているわけだが、彼は平然と応えた。

「そりゃ帰る所はウチしかないもの」

「そうじゃなくて、何故逢ったばかりのアナタが、ワタシのウチを知ってるのか? って言ってるの」

 今度はヤン少年がキョトンとする番だった。

「ワタシのウチって、ここはボクの家だ。もう本当に話が全然わからないよ」

 すねたように言いながら、ヤン少年は鳴らしっぱなしのラジカセを、大事そうに前カゴから取り出す。彼のペダルを軽くしてくれたレイ・パーカー・ジュニアの『ゴースト・バスターズ』 その軽快なリズムはとうに消えて、ホール・アンド・オーツのシニカルでやや重く、冷めた音の『セイ・イット・イズント・ソウ』を、テープは気怠そうに再生していた。

 九は肩を落とし、考える事を停止している。

「ほぅ」

 彼女の例のため息に、妙にマッチしたダリル・ホールの Say It Isn't So の声が 

――それはそうじゃないって言ってくれ――

 と、繰り返し、繰り返し流れた。けれども、ここは。

 どうしようもなく1984年の6月20日、やけに空が晴れた夜なのだ。


藍毅【5】

◆◆◆

 チン。

 乗用。乗員4名。積載量300Kgと表示されたエレベーターは、ドアが閉まっても全く重力の変化を感じさせない。

 建物は五階建て。標準の設計仕様だとして、低速型だ。藍毅《あいき》は設計事務所勤めという職業柄、無意識に判断した。

 分速45メートル。階高が約3メートル。ホテルのエレベーター。間口87センチ奥行70センチ高さ200センチ。1.218立方メートルの閉塞感。4階まで16秒。

 どうすべきかは判りきっていた。もはや彼に選択肢は残されていない。

 藍毅は右手でQの左肩を軽く抱き、その20倍は力強く引き寄せた。反動で胸が合わさる程強く。

 息を飲むように背中が緊張し視線が上がる彼女。その右頬を左手で包み、接吻《せっぷん》。

 抑えつけるような圧力に、抗しきれなかった彼女の背中が壁にぶつかって音を立てた。二つの唇はさえずりの音を繰り返す。鼓動と吐息とが不規則に早くなって行く。

 いつの間に抱かれた、背中の二本の腕がたくましく感じる。ジュンと体が火照って、全身に桜が咲く。意識までも上気した。

「ッふぁ」

 塞がれた唇が離され、声未満、吐息以上の微妙な発音が生まれた時エレベーターのドアは開いた。403号室は彼女の目の前にあった。

 ルームキーを差し込みドアを開けると、藍毅は目配せしてQを中へ促した。ここまでの彼の行動はパーフェクトだった。

 彼が逡巡《しゅんじゅん》していた理由は、後から聞かせればいい。もし彼女が聞きたいのであれば。

 二つのベッドの片方に彼女を座らせ、そのコートをハンガーに掛けると、温めたカップが冷めないうちにカフェ・オレを注ぐように、もう一度彼女の唇にキスを重ねる。再び小鳥がさえずりはじめる。さっきより湿った声で。

 いっぱしのプレイボーイらしく振る舞う彼は、頭の中で『彼女を失望させない幾つかの方法』と題した、少ない経験と外国映画や小説から得た知識で編纂《へんさん》したルールブックを懸命《けんめい》にめくっていた。

 彼女は空々しい会話から始める煩《わずら》わしい手続きを、省略できて内心ホッとした。そして余計な事を何ひとつ訊《たず》ねない彼に、真摯《しんし》ささえ感じた。

 首筋から肩へと、羽毛が滑ると思ったのは、彼の唇。髪を撫で上げるのはマシュマロを思わせるなめらかで柔らかく優しいのは、その指。胸の中心に温もりを、ポゥッと感じる。螢が止まったと思うそれは胸骨への淡いkiss。気がつけばシャツもジーンズも、その手に溶ろけてしまったのか、もう纏ってはいなかった。感覚の全てを、カプチーノの泡に包まれたみたいにクリーミーで、時にはピリッとシナモンの刺激が走る。

 彼は古いクリスマスムードのBGMが白々しくて、有線放送のスイッチを替えた。今週のビルボード2位、エイコンの歌うライト・ナウ・ナ・ナ・ナが切なくもスィートに二人を包み込んだ。

毛の長いブランケットが波打ち、やがて彼女の中にも、うねってくる。押し寄せては引き、引いては寄せ、その中に、ゆるりゆら、体を浮游させる。時にうねりはとても大きくて深く、彼女は呑み込まれて苦しくなる。けれどそれが過ぎるときの心地よさは、体中の血管が一瞬に開き、ひときわ熱い流れが髪の先まで行き渡る充足。ひとかけらの緊張もない純粋な解放感と光に満ちていた。

 ああ、自分は彼とメイクラブしてるんだ。と彼女は、未だかつて知覚したことのない言語感覚を覚えた。“ヤル”のでも“寝る”のでも“H”でもなく、コレがmake love なのだと。

 本当の名も素性も知らない二人は、狭いシングルベッドのシーツの中で「Right now・na・na・na」を声もなく踊っていた。それは昔《イニシエ》の恋人同士の邂逅《かいこう》のような、情熱的で何もかも解り合っているといった種類の無言だった。

 だが、ソノ激しさと反比例する刹那感は、まるでもう明日《あした》が無いかのような。

 2008年12月25日の午前2時半だった。

九【6】

 ◆◆◆

 家の玄関前で佇立《ちょりつ》する彼女は、銅像を思わせた。それはとても場違いで不似合いで、不釣合いだった。まるで誰かがそこに置き忘れて行った『薪を背負い本を読む二宮金次郎の像』というふうに。

 それを3秒ほど流し目に見ていたヤン少年は、やれやれと言う表情で言った。

「ずーっと、そこにいるつもりなの?」

 我に返った九は返答に窮《きゅう》した。

「入んなよ、1時になれば母さんたち帰ってくるから。ボーリングなんだ、今」

 ヤン少年の開けた見覚えのあるドアの脇には、白い陶器の表札に『矢野』と書かれ、下に『大毅・洋子・藍毅』とあった。やはりここは彼の家らしいと九は納得するしかなかった。

「お邪魔します。ありがとう」

 彼女は他にどうしようもなく、少年の勧めるまま中へ入る。そこには、やはり見覚えのある薄いライムグリーンのシステムキッチン。シンクやホーローの扉はまだ新しく、その上ピカピカに磨かれていて、吹きこぼれた汁の跡や、水垢どころかシミひとつない。

(ああ、本当にウチの家じゃない)と九は感じた。

 彼女の知るそれは、扉の取っ手辺から、何かの垂れた浅黒い汚れがこびりついていて縞模様を成していた。ちょうどシチューのこぼれたホーロー鍋の焦げ付きみたいに。

 だが、部屋の形も柱の位置も壁紙の模様も、全部彼女の暮らしていた家と同じだった。ただ、その総てが、新しさの主張を少しも諦《あきら》めていなかった。

 勧められたワインレッドの布張りソファーに腰を下ろし、そんなふうに周りを見回していると、ヤン少年がコカ・コーラと英語で書かれたグラスに黒い液体と氷を入れて目の前の低いテーブルに置いた。

 彼女がそれを口に含むのを見計らって。

「コーヒーだけどね」

 ヤン少年はいたずらを自慢する子供のように口角を上げながら、立ったまま自分も同じ形のグラスに口をつけた。

 彼は彼なりに、彼女を気遣《きづか》っているのだということは彼女にも分かった。それは彼女にとっても好ましいことだった。多少ズレてはいたが。

 灯りの下で見る彼の顔は、どこか彼女の知っている、誰かの面影を彷彿《ほうふつ》とさせた。九が陥《おちい》っている、訳の解らない事態の中で、それが彼女を意外に落ち着かせている理由のひとつかも知れない。

 もちろん、ヤン少年の存在そのものが、理由のほとんどであるのは間違いないのだ。それは彼女も理解している事実だった。

 九は自分に起きた出来事を、ヤン少年に話すべきかどうか悩んだ。

 もし自分が誰かにそんな話をされたとして、にわかに肯《うなず》けるかと言えば、答えはNOだ。例え親友であろうと、親姉妹であろうと。

 かと言って隠しておいて、この先どうすれば良いのか皆目見当《かいもくけんとう》がつかない。

 結局、事態がどう転ぶにせよ、事実の一番近くにいた彼以外に、打ち明けられる人間など存在しない。ここは意を決する他はない。

 九はなるべく愛想好い笑顔を作り口を開いた。

「キミは案外お茶目なのね? それに優しい」

 少年はまんざらでもなさそうに言う。

「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない。男だからね」

 グラスを揺すったキザな仕草に、氷がカランとCMのように音をたてた。

 そんなふうにカッコをつけておきながら、彼の視線はあらぬ方向にむけられていたし、セリフは誰が聞いても借りもの意外の何ものでもなかった。照れ隠しにしては、小学生にも効果の望めそうにない態度だった。

 しかも彼女はセリフの出典を知らなかった。

 最近読んだばかりのレイモンド・チャンドラーを気取った少年の目論見《もくろみ》は、残念ながら全く的外れに終わった。

 だが彼女は微笑で首を横に傾け愛嬌を作ると、彼の言葉尻を捉《とら》えて脚本の次のセリフに進んだ。

「でしょう? ワタシはそう思うのよ。キミは優しいって。だから大切な話をキミにしようと思うんだけど、聞いてくれる? とても大切な事なの」

 ワザと年上ぶった口調で彼女はヤン少年の目を見据えた。仕事で新規客に返済規約と利息について説明するときのように、にこやかに力強く。

「何?」

 こうして九はヤン少年を自分の救世主に仕立て上げるべく、不可思議で長い長い1日の説明を始めたのだった。思い出せる限りは。

 ◆◆◆

  「凄ぇな、タイムスリップじゃん!」

 彼女の話を聞き終えたヤン少年の第一声は、話した本人が予想さえつかないほど好反応だった。

「信じてくれるの?」

 あまりの『あっけなさ』に九の方が信じられないといった顔で問い返す始末だ。

「だって、あの瞬間を見たら誰だって信じるよ。空中から現れたんだぜ? 理央さんはさ」

 彼は目を輝かせて言う。キラキラとしか形容のしようがない、彼女を天使と呼んだあの瞳と同じだった。

「ありがとう。信じてくれて」

 九は心底、礼を言った。

「でもね。見ていなかった人たちはどう? 信じてくれると思う?」

「うーん。信じそうな奴はいるけど、うちの母さんたちはダメだな」

「でしょ? でもアタシはどこにも行くとこがないのよ。アタシはこのウチに住んでたんだもの」

「んー。そっか。あと何年かの未来には、僕はこの家にいないのかぁ。どっか引っ越すのかなぁ。親父が買ってまだ5年しか住んでないのに」

「たぶんね。でももっといい所に越すのよ。きっと」

 話が脱線しそうになる路線切り替えポイントを楽観的暗示方とでもいうべきやり方で九は懸命に本線へ保持した。

「ただ今アタシが困ってるのは、この時代で、アタシを信じてくれる人はヤン君、アナタしかいないのよ」

 九はテーブルに両手を着いて、身を乗り出すように彼の目にズームインしていく。

 女性特有の説得の癖と言っても良い、ありふれたパターン行動のひとつなのだが、彼女たちが意識する、しないに関わらず、その効果は自然、高い確率で好結果をもたらすのは、心理学的不思議である。そして当然、ヤン少年もそれに漏れない。

「そうだよな。うん。とりあえず今夜ウチに泊まってもらう方法を考えなきゃいけないな。母さんはうるさい質だから、親父を説得する方がいいな」

 ヤン少年が腕組みをして思案を練り始めた。間もなく玄関が開く音がした。

「藍毅。帰ったぞ。まだ起きてるのか?」

 顔も見えない位置から声がした。九には緊迫の一瞬だ。果たして、どう初対面を乗り切れば良いのだろう。頼りは当《まさ》にヤン少年の算段ひとつである。

「お帰り。親父、ヒッピーの人に逢ったよ!」

 だしぬけに言う彼の謎の言説に九は面を喰らった。(ヒッピーって何だ?) と。

「ヒッチハイクで来て関越で降ろされたんだって。泊まるとこないんだって」

 少年の父親は彼女を見て、自分の息子より年上らしい事に納得し、その、いでたちがフォーマルスーツである事に不審を覚えた。

「泊めるのは構わんが、ヒッピー? そうは見えんぞ? 嬢ちゃん、家出して来たんじゃないのかい?」

 そう問われて九は、ぱたぱたと右手と首を振った。

「違います、違います、あの……」

 そこで言葉に詰まった。彼女はヒッピーなるものが何なのか全く知らない。初めて聞いた言葉なのだ。ヒッチハイクというのも、何かTVで見たような気がする程度で、やはり詳しくは知らない。恐らく彼女は、無銭旅行者と浮浪者の違いも知りはすまい。

 彼女はいわゆる『ゆとり教育』第一世代にあたる。学校の授業時間は減らされ、土曜日は全休。空いた時間はビデオゲーム(画面の中で行うのは全てそうだ)か、塾に当てられていた。

 当時ほとんどの子供が家にソニーや任天堂やセガのゲームマシンを持っていて、さらに外出時にも携帯用ゲーム機を持ち歩くといった、エレクトリカルなツールで遊ぶ育ち方をしていた。その子らが学校や塾で、ゲームの進捗《しんちょく》具合や攻略自慢をして1日を過ごすのだ。そうでなければ、TVのアニメーションの話か、アイドルの話をした。

 まるでそれが世界の在りようの全てであるかのように、彼らは儀式のようにそれを繰り返していた。

 きっと電気のない世界では彼らは窒息死してしまうことだろう。

 そんな九にとって幸いなことに、1984年にも空気と同じように、電気はあった。

「インドネシアだかどっかで飛行機に乗る前に服を交換したんだって、なんかスゴい気に入られちゃったんだって。ね? 理央さん?」

「あ、ええ、なんだかそういう人にしつこく絡まれちゃって。それで、あの、勝手にお邪魔しちゃってスイマセン」

「大丈夫だよ。小学生のときにも何人もウチに居たんだ。親父が連れて来たヒッピーがさ。な?」

「うるさい。お前は黙ってろ。嬢ちゃん、本当に家出じゃないんだね?」

「はい、違います。今夜こちらへ着いたばかりで、その、近くの叔母の家にと思ったんですが住所が変わってて電話も通じなくて」

「それで偶然、俺と逢ったんだよ」少年はやっと自分を俺と呼んだ。

「そうかい。ウチはお客さんは大歓迎だが、親御さんには連絡したのかね?」

「はい、それが、急な帰国で、あの、実家が田舎の方で、その、北海道なので、朝にでも電話しようかと思いまして」

 彼女がこんなにシドロモドロになったのは初めてだった。九はヤン少年のとんでもないデマカセにちょっとだけ怒りを感じた。

「うん。そうだね。今夜はもう遅いから明日一番で電話しておきなさい。洋子。布団を出してあげなさい。それと風呂だ」

「はい。直ぐに。それで、アナタお名前はなんておっしゃるの?」

「あ、はい、紹介が遅れまして申し訳ありません。さ、さ、佐々木理央といいます」

 彼女はとっさに思いついた名を名乗った。サザラシなんて苗字はそうそうないのだ。それこそ今までうんざりするほど交わした質問と解説を繰り返す羽目になるし、もしうっかり調べられでもしたらより面倒な事になるのは目にみえていた。それに自分が鈴木とか、田中とか、普通にありふれた苗字だったら人生も大分違ったものになったに違いないと、常々思っていた事ではあった。それを実現してみたかったのだ。どうせこのセカイ中で自分を知っている人間なぞいないのだから。九は自分に言い聞かせた。ともかく、たった今から自分は『佐々木理央』という新しい人間なのだ。昭和59年、西暦1984年の22才で金融会社のOL。いや、衆目《しゅうもく》的には、どうやら無職扱いのようであったが。

藍毅【6】

 ◆◆◆

 エアコンディショナーの仕事ぶりは完璧で、ホテルの部屋は温度、湿度、風量、外気と排気の交換バランスまで、非のうちどころがなかった。にも関わらず藍毅《あいき》とQの肌から立ち昇る、ある種類の芳香と蒸発する熱量を快適に調整するまでには時間を要した。

 何かを言うべきか、恐らくは言うべきだろう。しかし、どう声をかければ良いのか。Qに背を向け、ベッドのヘリに腰を掛けた藍毅《あいき》は迷っていた。

「ひとつ聞いて欲しい話があるんだけど、いいかな?」

 藍毅がそれを選んだのは最終的にだった。女と寝た後で彼女の事を根掘り葉掘り訊《き》くのは下衆《げす》のすることだ。かといって自分の自慢話や、嘘八百のピーロー・トークを展開できるほど、彼は場数を踏んでもいなかったし強心臓でもなかった。

「なぁに?」

 彼女は促《うなが》す言葉を選んだ。彼女とて情事の残り香に、沈黙を耐えられるほどサバけているわけではない。

 藍毅はタバコに手を伸ばし、イムコのステンレス製オイルライターを擦った。ちりちりとラッキーストライクの100ミリが細胞分裂程度の音をたて紅く染まった。ふっ、と一息吐き出して彼は言った。

「最初に伝えて置くから良く覚えておいて欲しい。キミはとてもチャーミングで素敵な女の子だってこと。僕はそう思ってる。いい?」

 Qは瞼《まぶた》で肯《うなず》く。

「僕は若い頃に好きになった女の子がいた。ちょうどキミと同じくらいの年頃で、同じような背格好で、同じような髪の色と長さをしていた。当時彼女は年上だった。僕が18だったから4つ上かな」

「年までワタシと同じですね」

 彼女は言った。

「そう。その上困ったことに、顔も声までもそっくり瓜二つなんだ。双子の姉妹みたいに。ただ、声に関しては僕の思い違いかも知れないけどね。なにせ、25年も前のことだから」

「だからアナタはワタシと寝た?」

「そうじゃない。そう思って欲しくないからこの話をキミにしてるんだ」

 Qは黙って次の言葉を待った。

「僕らは今日、なんとなくみたいな形でこういう事になったけど、正直言って戸惑ってる」

「ワタシに付き纏われたりとか?」

「違う違う。全然、逆だ。つまり、なんというか、その」

 藍毅《あいき》は腰をひねり、背を向き直ってタバコを挟んだままの右手で頭を掻いた。そのせいで髪の先が少し焦げ、エアーコンディショナーの仕事を幾分か増やした。挙句《あげく》1センチあまりに伸びた灰を太腿《ふともも》に落として、危うく悲鳴をあげるところだったがその代わり。

「キミを好きになってしまいそうだってこと」

 災い転じて一息に言い切っってしまった。

「あ、いや、それでキミに迷惑を掛けるんじゃないかと思って。僕はこんな歳だし、地位も貯蓄もない。部屋だってロフトって名ばかりの天井裏付き賃貸ワンルームだ。だからもし迷惑なら言ってくれ。今すぐここを出て行ってもう二度とキミの前には現れないようにするから」

「それって、ずいぶん都合のいいんじゃない? ヤリ逃げの口上?」

 Qは藍毅の先刻からの言動が子供っぽくて可笑しかった。だから少しからかってやろうと思ったのだ。

「そう取ってもらってもいい。何なら金を置いていこうか? 幾らだい?」

 急にムッとして立ち上がる藍毅にQは声を立てて笑った。

「冗談よ冗談。アナタ思った通りの人だわ。良かったぁ」

「実はアタシもドキドキだったんだから。ここに来るまでの間、ずーとよ。でも今日アナタに会って解ったの。そうか、アタシはこの人に会いたくてパーティーに来たんだって。でも、お手軽な女と思われたくないし、もし変な奴でイザとなったら蹴っ飛ばしてでも逃げるつもりだったの」

 半分は冗談だったが半分は彼女自身、気付かなかった心の内だった。彼女の一人称は自然とワタシからアタシへと入れ替わっていた。

「ひとつ訊いていいかな?」

「どうぞ?」

「いったい何を蹴っ飛ばすつもりだったんだい?」

 言わなくても良い一言のせいで、藍毅はしばらくの間、悶絶《もんぜつ》することになった。それでも彼と彼女にとって、この夜は至福に満ちた聖夜であった。この夜二人は、自分たちのセカイに浮かぶ月が、蜜で満ちて行くのを願い、信じ、そして一欠片も疑わなかった。新宿駅前で、藍毅《あいき》が抱えていた憎悪も、それによって払拭《ふっしょく》されるべきものだった。どんな形であれ、人は蜜月を願うものである。そうであるべきなのだ。

九【7】

 さっきまで九が座っていた、居間のワインレッドのソファーは、彼女がシャワーを浴びて出てくるとベッドに化けていた。

 背もたれを平らに倒すとそうなる仕掛けのソファーベッドだったようだ。その上にきちんと角の尖《とが》った、淡いクリーム地に薔薇の柄が一面にあしらわれたセット布団が敷いてある。イングランド・カントリー調のそれはヤン少年の母親の趣味らしい。

 見れば天井から床までいっぱいに掛けられた窓のカーテン。絨毯も、貸してくれたパジャマも、それとよく似合った上品な物だった。

 枕にハガキ大の紙が一枚置かれてある。

「うちは職人なので明日は朝早くから台所がうるさいだろうけど、気にせずゆっくり寝ていて下さいね」

 そう書かれていた。少年の母親は優しくて気の利く人らしかった。九は思わず自分の母親と比べてしまい、自嘲気味《じちょうぎみ》に首を振った。

(あの人にはこんな芸当はできないだろうな)

 布団に潜り込む体の重みで、お陽様の匂いが噴き出す気がする ふかふか が、彼女を優しく抱いたのに。見慣れた天井の模様は、よそよそしげに彼女見下ろしていた。

(1984年か……)

 そう思うと同時に、今頃自分の母親はどうしているだろうかと急に心細くなってしまった。

 友人の結婚式に行ったきり、電話もメールもしないまま、帰って来ない娘を心配して、何度も携帯や、心当たりの友人の所へ電話をかけまくっているだろう事は想像するまでもなかった。警察に捜索願を出しているかも知れない。

 友達母子。今まで一度だって、連絡無しで家を空けたことなど九にはない事だったから。

 霧雨が知らぬ間にシャツを湿らすように、感傷がじんわり体に染み込んで来て、ふかふか が、あんまり優しさに過ぎていて、それが目尻をにじませた。

(帰れるのかな?)

 それが疑問なのか願望なのか、九にも分からなかった。

 つ。と、にじみが露《つゆ》となって、こめかみへ走る。その先の耳にコソコソとした物音が届いた。

「理央さん、理央さん、寝ちゃった?」

 引き戸の隙間から呼ぶ声は、今のところ彼女の唯一の理解者であるヤン少年のものだった。

「なぁに?」

 何事もなかったように声を整えて応じると、そーっと引き戸が開き、少年が忍んできた。

「ハイ、これ、朝はこれで頭縛って」

「何これ?」

「ヘアバンド。これしとけばヒッピーらしく見えるから。昔、本当のヒッピーにもらったんだ」

 半身を起こすと、側ににじり寄ったヤン少年の片膝をついた影があった。中世の騎士のソレのように。

 薄暗がりの中、彼の差し出すそれに彼女が手を伸ばした時、わずかに触れた彼の手が、ピクッと微かに震えるのを感じた。

 彼の頬が紅らんでいるのを、暗がりは隠していて彼女には見えなかった。

「ありがとう」

 そう囁いた時にはもう、引き戸の閉まる気配がしていた。

 1984年6月20日午前2時過ぎ、染み込んできた感傷は少年の意外な訪問と贈り物とで乾き、九はいつの間にか静かな寝息を立てていた。

藍毅【7】

 この世をば わが世とぞ思う 望月《もちづき》の 欠けたることも なしと思えば。

 古《いにしえ》の権力者が歌に詠んだ驕《おご》りも虚《むなし》く、満ちた月は欠けるものである。

 藍毅の月にその影が落ち始めたのは、2008年12月28日。彼とQが蜜月を願ったわずか3日後。

 仕事納めのその日、彼の務める早稲田の設計事務所から、浜松町にある某建設会社の巨大に過ぎる本社ビルへ、年明け早々に必要となる書類とデータディスクを届け、型通りの丁寧《ていねい》な挨拶を済ませた帰り。山手線の車内で或る人物を見かけた事に端《たん》を発した。

 その日の事を思う度《たび》彼は自身に問わずにいられない。

『不幸とは幸運の姿をして訪れるのではないか』と。

 藍毅はその人物に、忘れようとて忘れべくもない、憎しみの対象を見たのである。

 彼がまだ、少年と青年の境を踏み越えるかどうかといった年頃に、憧憬と、言葉に表しようのない想いをもって接した女性《ヒト》の、未来を奪った者。その顔であった。

 人間の記憶とは不思議なものだ。藍毅は思う。

 忘れてならない人の面影は、思えば思うほどに掠《かす》れて行く。優れたデッサンを誰かが、雑巾でこすったような無残さで。だがその存在は、ハッキリと、細部までそこに感じ取ることが出来る。それは一年がかりで完成させたジクソーパズルが、額から崩れ落ちた数万ピースのひとつひとつと同じく。

 翻《ひるがえ》って、忘れてしまいたいと思うものほど、その影までも堅牢だ。砂漠にそびえ立つスフィンクスのように、例え鼻が削ぎ落とされていても、一目でソレと解ってしまう。

 今、眼前の人物も思っているのだろうか? 欠けたることもなし、などと。

 気づけば藍毅はその人物の後を追い、渋谷の街に立っていた。

 逃《のが》すものか。と、平穏な日常の忙しさと言う沼の中に、いつしか沈みきり埋もれていた鬼が、20数年の長き眠りから烈火のごとく目覚めた瞬間であった。

 雑踏の波を掻き分けて今、藍毅は平静《へいせい》を脱ぎ捨てた。

 藍毅はその人物の名を知らない。何故なら、当時その人物は“少年A”であった。新聞にもテレビにも、関係者にも、実名は明かされない。少年法に護られていたのである。

 藍毅がその人物の顔を記憶しているのは、当の本人が“あの時”彼の前に顔を晒したからである。

 あの時。それは藍毅が少年であることを悔い、自分の無力を憎み、そして、少年であることを捨てた瞬間だった。

 無免許の飲酒運転で人を跳ね飛ばした後、ソイツは笑ったのだ。

 あらぬ方向を向いた首。捻れた胴。

 関節が増えたとしか見えない幾重にも曲がった腕、脚。

 アスファルトの黒く濡れる池。

 それを見て、ヘラヘラと笑ったのだ、ソイツは!

 あの時、ぶん殴っておけば、いや、ぶっ殺してやれば良かったと。いったい何年思い続けただろう。3年か? 5年か? 

 少なくともその後3年間、彼が剣の稽古に鬼気迫る情熱を傾け続けたのは紛れもない事実だった。

 そもそも藍毅は剣など好きではなかった。文武両道の名の下に、母親に柔道か剣道かを、選ばされただけに過ぎない。

 小学生時代から嫌々通わされていた道場で10年経ち、居合い抜きを習ったとき、初めて金属製の刀剣を握った。刃のついていない模造刀ではあったが、スポーツではない、生き死にの世界の片鱗をそこに見た彼は、武者震いを覚えたものだ。

 高3の夏。あの日を境に剣道部を引退した後も、或る目的のために、それを自ら練磨《れんま》したのだ。

 しかし、あの時以来。警察がソイツを連れて行ったきり。二度と会うことが叶わなかった。

 いかに憎しと言えど、相手の影も形もなければ、どうしようもない。3年も経てば如何《いか》な恨みと言えど、あきらめの雲に鬼の吐く紅蓮も、冷めて行った。少年は青年となり日々の暮らしのために働くようになった。いつしか、鬼の姿はその暮らしの中に埋もれていったのだった。

 だが今再び、その姿を捕《とらえ》えた。

 彼の胸には轟々と逆巻く炎が燃え上がる。剣が、刀《とう》が、いやカッターナイフのひと振りでいい。今この手にあれば生かして帰さぬものを。

 その思いは藍毅に苦虫を噛ませたが、かえって徒手《としゅ》であったことが彼に冷静さを与えた。

 今はソイツを追い続け、何かを掴むことだと、自分に言い聞かせながら彼は歩《ほ》を進める。

 だがしかし、どこかの大通りの交差点で、ソイツは車に乗ってしまった。仲間《ツレ》と合流したらしい。大型で高級な国産ワゴンタイプの車だった。

 「糞!」と吐き捨てた藍毅が、急にひらめいて、車のナンバーをメモしたのは、その道のプロでも、かなりの成果であると誉めてくれるだろう。しかし彼はその後どうすれば良いかまでは知らなかった。無念の思いを抱いて、彼はようやく帰社の道に着いた。

九【8】

 朝の風景とはどこの家庭も似たり寄ったりのものだ。目覚めた九は一瞬、いつもの我が家と勘違いして、そこにいる人々が、自分の家族と違っていることに驚きそうになった。

「理央さん、おはようございます」

 そう言ったのはヤン少年の母親の矢野洋子夫人。

「んわよー。いおはん、おくめむれら?」

 と朝食を口にねじ込みながら、何を言っているのか分からないのが、ヤンこと矢野藍毅《あいき》少年、本人である。

「子供じゃあるまいし、口に物を入れてしゃべるんじゃないと何度教えたら分かるの。行儀の悪い」

 夫人は母親らしい小言を言って立ち上がり「顔を洗ってらっしゃいな」とタオルを渡してくれた。

 九は会釈をして洗面所へ向かい、出て来た時には、ひたいに南米インディオ風のヘアバンドを巻いていた。

 彼女自身は『スーパーフライ』みたい。と思っていたが、それを見たヤン少年は満足そうに片目をつぶってみせた。

 ワサワサと朝食をかき込んだ少年は学生カバンと、何やら子供一人は入りそうな大きく膨らんだ焦げ茶の布袋に、やはり同じように布に包まれた棒のような物を引っ掛けて肩に担いだ。

「剣道部の朝練なのよ」

 夫人が説明してくれた側をバタバタと。

「理央さん、ちゃんと待っててよ! 行ってきまーす」

 ヤン少年は慌ただしく飛び出して行った。

 夫人は顔をしかめてかぶりを振った。

「あれでもう18なのよ? 信じられないでしょう」

 そう言って苦笑いを向けた。

「いえ、そんなこと」

 九は当たり前に否定したものの、内心は少し肯《うなず》いている。

「変に思うところが有るかも知れないけど、気にしないでね。ちょっとばかり成長が遅かったのよ、あの子。小学校に入る前の知能検査でね、結果がたった1ポイントだけ低くでたの。ぎりぎりアウトの線に入っちゃったのね」

「そうなんですか?」

「そうなの、たった1ポイントよ? でね、一般クラスに入れるか、特殊学級に入れるかって学校と面談になってしまって。私が頑として一時間も譲らないものだから校長先生が、一般クラスで支障がでたら、その時また考えましょうって折れてくれたのよ」

「そうだったんですか。良かったですね。特殊学級? ていうのに行かなくて。彼、全然、普通じゃないですか」

「あら、面白い言い方ねぇ。流石は外国帰りの人ねぇ。そうでしょ、全然おかしくないでしょう? 普通の子なのよ、多少幼いのは解ってるのだけど。全然普通? よね?」

 夫人は九の(時代の)言葉が、割と気に入ったようだった。最後は使い方を確かめるように問いかけだった。

「その1ポイントって、IQテストの事ですか?」

 知能検査と言えば、九はそれしか知らなかったし、数年前からテレビなどでも、『IQなんとか』という言葉がよく出てきていた。ゲームにもそんな感じの物が増えたなぁと。もちろん彼女は自分の時代、2009年を基準に考えているのだが。

「ああ、そうそう、IQって言ったかしら。それが85ないといけないって言うのよ? で1ポイント足りないからっ特殊学級って、酷いわよねぇ」

 夫人は息子が普通に育った事が、大層喜ばしく、また自慢なのだろう。九は「ですね」と応じて、再び、面白いわと言われ、汗顔のいたりだった。接客講習でいろいろと正しい言葉使いを指導されたのを思い出したのだ。

(ウチはやっぱり頭が悪い)

 また、いつもの癖が頭に浮かぶ。

「ところで、理央さんはいつまでいられるの? すぐ御実家に帰られるの?」

 そう問われて九はハタと困ってしまった。帰る実家は20数年後のこの家なのだ。帰れる当てなど全くない。仕方なく彼女は言葉をつくろった。

「いいえ、本当はまだ戻るつもりはないんです。しばらくは」

「そうなの。まだ行きたい所が有るのね? どこの国?」

 そう言われても当然答えようがなく、これも仕方なくごまかしを言った。

「オーストラリアとか」

「まあ、そう! 良いわね若い人は。でもせっかく日本に戻ったのだから、電話くらいはしておあげなさいな。元気な声をきけば喜ぶわよ、親御さんも。ね?」

「ええ、そうします。後で電話お借りしますね。あの、ちょっと失礼を」

 そう結んで九は席を立ち、トイレへと逃げ込んだ。もちろん、これ以上の夫人の追求を躱《かわ》すために、である。

 図書室のアインシュタイン。そう呼ばれるという一石在将《いちいし・ありばた》に、九が引き会わせられたのは、洋子夫人の質問攻めを、家事手伝いという奉仕活動でどうにかいなし、いささか疲れの出てきた矢先の、1984年6月20日午後3時半頃であった。ヤン少年が連れて来た同級生である。

「おお、これはこれは、なかなかの美人さんじゃないですか」

 図書室のアインシュタインが発した第一声は、初対面の女性の、しかも目上に対して、はなはだ失礼な容姿に対する評であった。

「ヤンのアホなんかほっといて、どうです? 俺とお茶なんか飲みにいったりしません?」

 そろそろ、張り倒してやろうかと思っていると、彼の後ろに立つヤン少年が彼を指差し、くるくるパーのゼスチャーをしているので、九は鼻で笑って抜きかけた矛《ほこ》を収めた。

「それでですね。後ろのアホが言う事なんで、あまり当てにしてはいないんですが、アナタが未来から来た本人という認識でよろしいですか?」

 唐突に核心に踏み込まれ、九は思わずヤン少年の顔に視線を送った。

「コイツなら大丈夫だよ。頭はいいし家は金持ちだし、兄貴はコンピューターの大学に行ってるし、UFO だろうと超常現象だろうと驚かないから」

「確かにムーくらいは読むが。金持ちなのは親で、俺には関係がない。それにコンピューターの大学なんかない。人間の大学だ。工学部の、コンピューターを電話線で繋いで世界的ネットワークを作ろうとしているアメリカの学者グループに、教授が参加している。そのゼミに入っているだけだ。それから、超常現象に驚かないわけじゃない。信用してないだけだ。」

 ムーとは1980年代当時、学習雑誌の会社が発行していたオカルト・SFミステリーなどの専門誌の事で、怪しい内容から最先端物理科学の記事まで、内容は玉石混淆ではあったが人気のあった雑誌である。2009年現在も刊行されていたはずだが無論、九のようなタイプの女性が知るはずもない。

 ヤン少年の揚げ足取りを完璧に行い、明解な訂正を同時に、ひとことで済ましてしまうあたり、彼は通り名に恥じぬ非凡な人物のようである。ヤン少年と同じ年齢とは思えないほど、その思考は成熟して見える。九はとりあえず、彼に一目置くことにした。恐らくヤン少年の言う『信じそうなヤツ』とは、彼のことであろうから。

「まー、お前のムサ苦しい部屋で話すのは仕方ないにしても。せめて缶コーヒーでも出さないか? 俺は客だぞ?」

 図書室のアインシュタインこと一石在将《いちいし・ありばた》の、おどけた催促にヤン少年はポケットを裏返して見せた。金なんか持ってるわけがないと言うふうに。

「あ、アタシがだすわよ。そのくらい」

 九はハンドバッグから財布を出し、小銭を漁るがなかったので、夏目漱石を一枚取り出す。

「……それ、偽札じゃないよな」

 疑問符を付けずに一石《いちいし》が言う。きょとんとする九。振り返ってヤン少年と目線を交わす一石。事の重大さに気付かずにいるヤン。

「ハッ、なるほどね。アンタは確かに未来から来たらしい」

 あきれ顔でため息を漏らすと、一石《いちいし》は斜に構えてテーブルに肘をつき漱石の千円札を手にとると、人差し指と中指の間に立てて挟み、しげしげと見つめる。そして自分のポケットから伊藤博文の肖像のある札を取り出し言った。

「ヤン。これで三本、買ってきてくれ。俺はUCCでいい」

 階段を駆け下りコーヒーを買いに行くヤン。九を見つめる一石。

「こいつは今年、11月に発行される事になってる新札だ。アンタが何の不自然さもなく、こいつを財布から出すってことは、あのアホの話は本当だと考えるべきなんだろうな?」

 まるで九に問うように、しかし一石の視線は彼女の背後にある空間を凝視していた。そこに見えざる何かが存在するかのように、その眼差しは真剣で妙に大人びていた。

「時を駆ける少女…… にしちゃー、少し老けてるかもな……」

 22才のレディーに向かって再三、失礼なセリフを吐いた一石だったが、九はその眉間のシワに、はかり知れない深さを感じて冗談にも怒る気にはなれなかった。

 図書室のアインシュタイン。こと、一石在将《いちいし・ありばた》18才は、呼吸も忘れたのではないかと言うほど静止したまま、その視線を先程の空間に凝固させ、深い思索の海に潜っているようだった。

 5分か6分して、ヤン少年がUCC コーヒーを3本抱えて帰って来ると。

「同時同空間イコール時空。時間の一方通行。大重力による空間の歪み。ワープ理論。ワームホール理論。ミンコフスキー空間の時間軸はひとつ、とすればパラドックスは……」

 一石《いちいし》はSF小説のような文節を並べ立てて独り言を言っていた。

 ヤンは彼の前に缶コーヒーを置いて訊ねた。

「何を考えてる?」

 一石は露骨に、馬鹿にした横目でヤンを見る。

「お前に分かる事態と思う俺じゃないつもりだが、あえて言おう。お前はバカだ」

「知ってる。追試を受けなかったことがないのが自慢だ」

「そうか、それは良かったな。問題は……」

「問題は?」

「明日の歴史がどう変わるかだ」

「明日? 明日に歴史なんかないだろ? それぐらいなら俺も分かるぞ」

 ヤン少年は胸を張るかのように言った。

「だからバカだと言っている」

「何で?」

「彼女が未来から来たという事実がある以上、明日から先の歴史はもう在るんだよ。分かるか? 彼女にとって現在は《ココ》は歴史上の過去だ。教科書に載ってるようなやつだ」

「載ってたよ」

 初めて九が口を挟んだ。

「確か、ロスオリンピックが1984年だっけ? 現社の年表にあった気がする」

「正解。但しまだ始まっていないけどな。で、日本人は金メダル取ったか? カール・ルイスは何個?」

 一石は思惑ありそうに身を乗り出す。

「そんなのは知らないわよ。興味ないもの」

「残念だな。知ってりゃ賭けて総取りも可能だったのにな。やはり歴史“も”既定のバランス変調を厭《いや》がるか」

 八割以上は本気で不埒《ふらち》な賭けを考えていたようなセリフだったが、後半は例の独り言の続きのようだった。一石はヤン少年に顔を向ける。

「な? そういう事だ。分かったか?」

 一石の問いが、何に対して訊いているのか、ヤン少年にはよく分からなかったが、彼は一応首を縦に振った。

「無理するな。分からんだろ。いま説明してやる。どうやら当のお姉さんも分かってなさそうだしな」

 また疑問符抜きで一石は言う。事実をさらっと指摘された九とヤンは、思わず目を合わせてしまった。

「簡単に行こう。因みにお姉さんの名前は何と?」

「さ、佐々木、理央」

 九は今日つけたばかりの仮名の方を名乗った。

「生年月日は?」

「1987年5月4日」

「問題はそこだ理央さん。あんたがこのまま、この1984年からずっと生きているとすると、3年後に生まれるはずの佐々木理央、これを理央Bとしよう。1987年には25才の理央Aと、0才の理央Bが存在することになる。これを二重存在と言う。ここまでは分かるか?」

 二人は肯く。

「ところがだ。二重存在は同じ時空間において絶対有り得ない。有り得るなら自分が何億人いてもいい訳だ。想像つくか?」

 ブンブンと首を横に振る二人。

「タイムスリップだの、ワープだのが本来有り得ないはずなんだが、それは起きてしまった事実だ。となると、いまある世界、いや宇宙と言った方がいいな。その物理的バランスが崩れたってことだ。ここまでは分かるか?」

 再び二人は肯く。

「自然界はバランスが崩れるのを嫌う。余計な何かが増えると、何かが減る。コレは間違いない。質量保存の法則とかエネルギー保存の法則ってヤツだ。極端に簡単に言うと理論上、人間一人が時間跳躍をする場合、元の時代において宇宙が一個分のエネルギーが余ると言われている。逆に跳躍後の時代、つまり今この時代だ。そこでは宇宙一個分のエネルギーが消える。絶対零度の凍りついた、しかも極端に収縮した宇宙だ。ワープ理論を計算するとそうなるらしい。分かるか?」

 再びブンブンと二人は首を振る。

「だろうな。俺にも理解はできん。しかし今、俺たちの時代は消えていない。とするとどこで宇宙はバランスを取ったのか? 或いはこれから取るのかも知れん」

 沈黙する二人。

「ひょっとしたら2009年には新しい宇宙が一個生まれたのかも知れない。だが1984年の今、宇宙は消し飛んでいない以上、いくらかの時間差があるのかも知れん」

 もはや何が何だか分からないと言った顔が二つ並んで固まっている。

「それともこの時代から別の誰かが時間跳躍をさせられたかだ。可能性はある。この話は一応ここまでで置いておくが、さて本題にはいる」

 二人とも興味はあるのだが、一石の講義内容は難し過ぎた。それでも必死に聞かずにはいられない内容なのだ。彼らは崩した足を座り直して一石を見つめる。

「今ここにいる佐々木理央Aが3年後にも存在した場合、佐々木理央Bは生まれない。さっきも言ったが時間が一本線な限り、二重存在は不可能だからだ」

「四次元でもダメなのか?」

 やっと口を挟んだヤンだったが、それはテレビアニメの影響から思い至った発想でしかなかった。

「アインシュタインの言う四次元でも時間は一本線だ。時間が複数存在すると考えるのは、シュレディンガーの猫みたいな量子論物理学上の話で、存在は確認出来ていない。2009年はどうだ?」

「わかんないけど、タイムマシンはないよ」

 九は答えた。

「だろうな。有るなら俺たちには何の問題もない。さてと、じゃあ3年後、佐々木理央Bが生まれないとどうなる?」

「アッ!」

 ヤンが口を開いた。

「理央さんがここに来られない、タイムパラゾールだ!」

「そう、パラドックスが発生する」

 一石はヤンの無知を無視して訂正を加え話を進める。

「つまり理央Aさん。あんたが来ちまった以上、理央Bが生まれるまでに、元の時代にお帰り頂かないと、あんたを含めた俺たち人類のいる、何百億年だかの三次元時空宇宙は、歴史ごと無くなっちまう確率が100パーセント近いってことだ」

 そう言われても九自身には責任のない、事故としか言いようのない現象である。

「どうやって、帰るのよ……」

 それ以外にどんな言葉が言えるだろう。途方に暮れるとはこういう事なのだ、と九はあまりに重い実感を伴ってうなだれるしかなかった。

「或いは、もっと遠い過去へ跳躍《ト》んでしまうか……」

 流石に一石も、その考えを口にする事は出来なかった。彼女のその姿を見なかったとしても、やはり冷酷に過ぎる言葉だと言う事は、聡明な彼には理解《ワカ》り過ぎていたから。

「なー、一石。お前のマイコンでなんとかなんないのか?」

 ヤンが物悲しそうに言う。

「マイコンどころかスパコンでもどーにもならんよ」

 マイコンとはパソコンの古い呼び名であり、スパコンとはスーパーコンピューターの略である。当然1984年のこの時代に、現代のパソコンを持ち込めば、性能的にはスパコンと呼ばれる事になったかも知れない。

「……それでもオスカーに訊いてみるくらいはやってみるさ」

 オスカーとはアマチュア無線衛星の代名詞である。インターネットがまだ実験段階であり、電話線での、いわゆるパソコン通信が始まったかどうか、といったこの頃、マイコンやワープロと、アマチュア無線をつなげて、衛星経由でパケット通信を行うという方式が日本でも始まったばかりであった。それも相当マニアックな連中の間でしか知られていないものである。それらの装備も高価で一般の高校生風情《ふぜい》が持てるものではなかったが、どうやら一石在将《いちいし・ありばた》の家庭において、彼とその兄への経済的投資はかなり高額であったようだ。

 一石の言う、オスカーに訊いてみると言うのはつまり、しごく簡単に言えば、SFや物理、数学マニアの集まる掲示板で質問する意味だ。そこに明快な答えが存在しない事を知った上で、試してみると彼は言っていたのだ。

 さて、と言わんばかりに立ち上がりながら、一石は言う。

「とりあえず、事実を知る人間はこれ以上増やさないことだ。俺とお前だけでいい。それから理央さんも、不用意に他人に接触しないでくれ。矢野のオッチャンとオバチャン以外にな。うっかりしてると、解剖されかねんぜ? 三人並べて」

 物騒な事を遠足の注意事項よろしく、一石は付け加えた。

「警察にか?」

「表向きの使い走りはな。裏に待ち構えてるのはラングレーかMI6《エム・アイ・シックス》か……」

 ラングレーとは米国中央情報局、俗に呼ばれるCIAであり、MI6《エム・アイ・シックス》とは英国情報局秘密情報部の旧称である。

 そんなものを持ち出されると、にわかに胡散臭《うさんくさ》さが真実味を隠してしまうが、極わずかでも、自国の利益と国防に脅威が“感じられる”と判断した事象に、いち早く対応し、確実な“制圧”手段に出るのが、この二国の組織であるのは、事実と想像の双方において正しい。

 これに加え、イスラエル情報局モサッドや、旧フランス防諜・外国資料局が1982年現在、対外治安総局(DGSE)に改称されているが内実に変わりはなく、それらの機関が現実に存在し年中無休で機能していることを、この国の一般人はほとんど知らない。

 一石の言説《ごんせつ》は、その発想がどこから出たにせよ、 あながち世迷《よま》い言《ごと》ではなかった。

「007みたいかな?」

 真剣な割に、どうもヤンの言葉には緊張感が見えない。

「もっとヤバい連中だろうよ。ともかく、あんたが身分証明を求められでもしたら、その先の命に保証はないと思ってくれ。佐々木理央が何者か、判別できそうなものは海にでも沈めちまえ。そのキラキラした二つ折りの物体とかな。どうせ役に立たんのだろ? ココじゃ」

 彼の差す指の先に、九のデコ電(携帯)がバッグから顔をのぞかせていた。

「これがなんだか分かるの?」

「分からんが、この時代にはない何かだと感じるんだ。何だか見覚えある気もするのは、不思議というか、我ながら不気味だぜ」

 一石の鋭さに九は唖然とするばかりだ。

「何か収穫があったらまた来る。じゃな」

 背を向ける片手をポケットに突っ込んで、裾をだしたYシャツに緩めたネクタイが翻《ひるがえ》る。

 そのルーズさは、九の高校時代の男子生徒と、さほど変わらないものに見えて、ヤン少年と同じ制服とは思えないところがあった。

「あれ、流行り始めててさ。カッコイイつもりらしいんだ。制服じゃあダサいと思うんだけどね、僕は」

 少年はそう言って友の足音を見送った。階下でドアの閉まる音がした。

 ヤン少年が命の次に大事にしているラジカセのスイッチを入れると、マドンナのライク・ア・ヴァージンが軽快に鳴り始めて、空気が少しだけ軽くなった。

 もうすぐ空は朱に染まっていきそうな、そんな初夏の日の終わりだった。

藍毅【8】

 藍毅《あいき》が2009年を迎えたのは、暗鬱《あんうつ》とした自室の中だった。

 自分は何故、こんなトコロに在《イ》るのだろう。どこで道を間違えたのか。

 25年前、あの人を失って以来。もう誰を好きになることもないと決めていた。

 思うことは、いつかヤツらを叩きのめしてやる。そのことだけだったはずだ。事実、3年も剣を振り、5キロ以上もある日本刀の真剣を、なんの危なげなく扱えるほど修練を積んだ。

 それは憎悪から初まった。だが修練とは不思議なもので、積めば積むほど、無心の境地と言えばよいのか、『倒すべき敵無し』と思えてくるものだ。

 握る剣のその一閃《いっせん》が、自分のイメージの中にある敵方《てきかた》と対峙《たいじ》する際、斬った、とハッキリ手応えを感じることがある。そうした時、心には一点の曇りもないのだ。

 心に曇りがあれば、仮想の敵方と言えども簡単に斬ることは出来ないから不思議としか言いようがない。そんな心が晴れる瞬間が積み重なるほどに、憎悪もまた晴れて行く。執着が切れるのだ。

 そうしてようやく、自分の中に有った妄執《もうしゅう》を、仇を討つ、という不毛な憎悪の鬼を、深い心の淵《ふち》に沈め、普通の生活を生きること“を”自然“に”出来るようになった。

 忘れた訳ではない。ただ過去を過去として受け入れたのだ。20余年そう思っていた。

 そしてQに出逢った。それは運命の悪戯とも言うべき出逢いだ。忘れ得ぬあの人と瓜二つ、 しかも彼女は自分を求めていた。

 自分は人を愛せるようになるのだと、藍毅はその夜、確かに感じた。

 それがどうだ? たった3日。

 たった3日で、“あの”憎悪が全身を呑み込んだ。

 いったいどちらが『運命の出逢い』なのか、藍毅には分からなかった。

 しかし藍毅はひとつ理解した事が有る。

「愚かな者は愛することより、憎しみをこそ食《は》んで生きるのだ」

と言う事を。

 「ごめん。Q」

 藍毅は誰もいない部屋でつぶやいた。思えば肌を重ねておきながら、まだ彼女の名も知らなかったし、自分の名さえ告げていない。なんと馬鹿な話だ。それで人を愛せるなどと思った自分が、藍毅は可笑しかった。

 しかし、今となってはそれで良かったのだと思う。自分はこれから、殺人者になるのだから。

 神社の鐘の鳴り渡る中、新たな年の誓いを悪魔に捧げてしまった藍毅は、どうやって仇を捜し出そうかと、毎日調べ物に没頭した。Web の海に潜り、書店や図書館を練り歩く。

 仕事が始まっても、頭の中はそればかりだった。単なる人捜しなら興信所に頼むことも出来る。しかし、藍毅のやろうとしている事は、誰人にも、知られてならない事なのだ。

 自分だけだ。頼れるのは自分一人。そうだ。昔、怒りと憎しみと怨みを以《もっ》て胸に刻みつけた思いが、まさに黄泉帰《よみがえ》る。

 ひと月余りを費やし、藍毅は或る方法に考え至った。最も困難だが、独りきりで可能な方法。

 定点観測である。

 つまり、刑事ドラマでよく見られる張り込みを、彼は一人でやろうと言うのだ。例の車のナンバーは陸運局で所有者を確認してある。しかし直接的な藍毅の敵ではなかった。となれば、最初に例の人物、ヤツを発見し追った渋谷駅ハチ公口。そこで張るしかない。

 毎日、一日中、駅前に立ち続けてヤツが再び現れるまで、張り込み続ける。そのための方法もメドがついた。数年前に居酒屋で聞こえた話が変なところで役立った。

 彼は体調不良を理由に会社を辞めたその日、その足で浅草合羽橋《あさくさ・かっぱばし》道具屋筋に向かった。

 入った店は仏具店。藍毅はそこで、網代笠《あじろがさ》から輪袈裟《わげさ》に黒い直綴《じきとつ》、白襦袢《じゅばん》に頭陀袋《ずだぶくろ》脚絆《きゃはん》手甲《てこう》に、錫杖《しゃくじょう》数珠《じゅず》草履《ぞうり》に持鈴《じれい》と、街に立つ托鉢《たくはつ》僧の着衣と持ち物を一揃え買った。

 肝心の鉢を買わなかったのは托鉢をしないからで、足袋を買わなかったのは、本当の僧侶が托鉢行のときにも、素足に草履だと知ったからだった。

 それに托鉢《たくはつ》をするには寺院が警察に届け出て発行した、許可証がいる事も調べて知った。目的が目的なだけに警察に目を付けられては困る。

 藍毅はその格好で達磨行《だるまぎょう》をやるつもりだった。マントラを唱え一日中立つ。私語は厳禁。まさに張り込みに、うってつけではないか。

 もっとも冬に裸足で、あてどなく立ち続けるのがどれほどの苦行か、だがやるしかない。藍毅が覚悟を改めて渋谷駅に向かったのは、2009年1月末のことだった。

 チリン。

 持鈴の音が復讐の始まりを告げた。

 ◆◆◆

「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバ……」

 氷塊《ひょうかい》並みに冷たい風が、剥き出しの素肌を打ちつける。唱えるマントラだか真言だかが、何度も悲鳴になりかける。

 裸足に草履《ぞうり》がこれほど辛いとは、コソッと吹くごとに飛び上がらんばかりだ。

 3日経ち、1週間が過ぎても藍毅は冷たさに慣れることが出来なかった。想像の範囲《レベル》を、2000メートルは越えていると藍毅は思う。

 2月。春近しと謂《い》えども、年中で最も寒い時期なのだ。関東だろうと九州だろうと、それに変わりはない。そんな時期に、こんな事をする馬鹿はいまい。

 何も精神修養するためではないから、細心にして最新の防寒対策はしている。足裏にも一応は、小型の使い捨てカイロを貼ってある。それでも露出部分はどうにもならない。靴がどれほど、ありがたい物かを彼は初めて思い知った。

 だが、こうして寒さに意識を取られている間に、大事な仇《あだ》を見逃すかも知れない。それでは何のためにこんな苦労をしているのか分からなくなる。

 注意は周りに向け続け、修行僧らしさは保たねばならない。それこそ、大修行ではないか。目的は本来のものと、まるで正反対のところに有ると言うのに。

「サラバボッケイビャク サラバタタラタ」

 足指で地面を掴んだり放したりしながら、彼は必死で耐えていた。

 そうしながら、早く現れろ。姿を見せろと、いつしか祈るようにマントラを唱えている自分に藍毅は気がついて、思わず苦笑を噛み潰した。

 全く自嘲《ワラウ》しかない。僧の姿で、自分が殺そうとしている相手の出現を、祈っているのだ。滑稽《こっけい》にも程がある。自分がこんな体験をすることになるとは、生まれてから一度だって想像したことはない。

 そうだ。自分はいつから自分が想像もつかない人生を歩み始めたのだろう。藍毅は寒風吹き荒ぶ中、記憶をたどり始めた。

 皆と同じように小学校へ行き中学校へ行った。何故か仲がよい友達にイジメられたりして、席が隣というだけの、ロクに話したこともない不良《ツッパリ》と言われる級友から助けられたりした。その級友は言った。

「オマエ、根性あるよ」

 それが誉め言葉なのは分かっていたので、ありがとうと応えた。

 それからしばらくは、授業中にくだらない話をした。大概がどこそこの店に飾ってある車の模型がカッコイイとか、どこそこの本屋はマンガが立ち読みしやすいとか、そんな話だった。

 高校に入るとその級友は番長《バン》と呼ばれるようになった。新設されたばかりの公立だったから、平均点以下でも入学は出来た(と言うより、そういう生徒の受け皿として作られた学校だった)し、藍毅も中学校での成績は、常に中の下で追試のレギュラーメンバーだった。

 偶然にも1年2年と同じクラスだったが、彼が喧嘩をしているところなど見たことはなかった。別に仲違いしたわけでもないが彼とは3年間、一度も話しをしなかった。たまに目が合うと、なんとなくどちらかが視線を外した。お互いに棲むセカイが違っていると理解していたのかも知れない。

 その級友は20才の時、愛車の下敷きになって死んだ。

 とてもよく晴れた気持ちのいい日曜日。彼はぶっとい低音が自慢の新しいマフラーを取り付けていた。ジャッキアップした車の底に潜り込んで。

 何かの拍子にジャッキが倒れた。

 車はサスペンションコイルを切ったローダウン、いわゆるシャコタンで、路面との隙間は5センチメートル。

 彼が車の下で死んでいるのに誰かが気づくまで、1時間かかった。

 そして彼は、ゆっくりと時間をかけて独りで死んだ。

 藍毅がそれを知ったのは25才の誕生日だった。

 彼の人生と、自分の人生。それを分かつ物はいったい何だったのだろう? 藍毅は考えてみた。けれど、これと言って理由は見つけることが出来なかった。生まれた時から分かれていたのだ。たぶん。

 それが25才の誕生日の夜、藍毅が考えた全てだった。

『同じ日に生まれた一卵性双生児が、全く同じ人生を送れると思うか?』

 渋谷の人波を、凍えながら観測していた藍毅の頭の中に、そのクエスチョンは聞こえた。高校生の頃、藍毅の友人と呼べる数少ない誰かがそう言ったのだ。

 誰かが。それを思い出そうとすると途端に、いつも酷い偏頭痛にみまわれる。そしてあの人の死の瞬間が、壊れたビデオディスクみたいに、何度もリピートされる。なのに、あの人の顔は巧妙に隠されていて、記憶を読み出せないのだ。

 傷痕《トラウマ》か……

.

 傷痕のない人間などいやしない。

 今、自分の目前を通過して行く人波。どこの誰とも知れない無数の人々にも、それは有る。恐らく。

 自分だけが何かを抱えていると思うのはエゴに違いないのだ。

 と、それを理解していると思う程度に、藍毅は大人になったと自負している。『幾分か』の、ただし書き付きだが。

『同じ日に生まれた一卵性双生児が、全く同じ人生を送れると思うか?』の問いは。

『誰も、同じ人生を歩んで、いない』

という事なのだ。どんなにそれが似て見える物だとしても。

 現在《イマ》の自分ならそう答えることが出来る。だが当時の自分は何と答えたのだったろう。そして問いを発したのは誰だったか?

 いや、ちょっと待て。

 藍毅の思考はそこで或る矛盾点を発見した。

 自分は何故、あの日Qが“あの人とソックリ”だと判かったのだ?

 あの人の影を追えばそれは必ず、いつも唯ひとつの固定化された記憶に、ひとっ飛びに行き着いてしまう。そこにたどり着くまでには、多くの記憶があって良いはずなのだ。彼女と自分が何を話したとか、どんな事をしたとか、そういうモノが。けれどこの20数年間、一度だってそういったモノが思い出せたことがない。

 そこでまた藍毅の思考は行き詰まってしまう。そしてその感覚自体に、覚えが有ると感じる。既視感、と言うより、既経験感、と言うべき奇妙な感覚だった。リセットボタンを押してやり直したロールプレイングゲームのような。

 何かがおかしい。

 藍毅は自分の頭の中に、厳重に遮蔽《しゃへい》され、密閉されたブラックボックスが在るように感じた。自分の中に、自分の知らない何かが隠されていて、自分はそれに触れる権利を剥奪《はくだつ》されている。その中に何が入っているのか分からない。カラッポで何もないかも知れない。

 しかしソレは自分のどこにも繋がっていない。

 しかしソレは、とても大切な何事かを司っている。

 自分はソレに、つき動かされ、ともすれば操《あやつ》られているのではないだろうか? 自動運転の地下鉄みたいに。

 あの人とQの間に何が在るのか?

 それを自分のブラックボックスは知っている。ソレの鍵が開くのは恐らく、『コノ仕事』が終わってからなのだ。藍毅は根拠なくそう確信した。それこそ、自動的に。

九【9】

 1984年6月21日。九がこの時代に来てから2日目以降、矢野家での彼女は、ヤンこと矢野藍毅《あいき》少年の住み込み家庭教師と言った立場に落ち着いてしまった。

 矢野夫妻にそれを提案したのはヤン少年本人で、彼の母親は誠に殊勝《しゅしょう》だ、名案だと喜んだが、示唆したのは、彼《か》の図書室のアインシュタインだった。

 ひとつには矢野家から彼女を放逐《ほうちく》させないこと、ひとつには彼女の行動範囲を矢野家の生活範疇《はんちゅう》に制限することが彼の目的だった。

 彼女としては、勉強が得意だったことは記憶になく、しかし居候の身でいるのは心苦しい。かと言って働きに出られる身分は持ち合わせがない。不服ではないが痛し痒《かゆ》しと言った体《てい》である。

 このようにして九は、ヤン少年と二人、彼の中間テストに向け教科書と首っ引きで、頭を悩ますハメになった。

 彼《か》のアインシュタイン、一石在将《いちいし・ありばた》少年が、ヤン少年宅を再び訪れたのは3日後のことで、二人が真摯《しんし》に机に向かい、教科書と参考書相手に格闘していた最中だった。

 小馬鹿にしたように鼻で笑ってから彼は言った。

「ふ、なかなかのお似合いだな、アメリカン・ドラマの高校生カップルみたいだぜ?」

 その程度の冗談口にたじろぐ九ではないが、ヤンの方は頬を紅らめていた。

「理央さんを先生にしろって言ったのはアリ莫迦《ばか》じゃんか!」

 語気は強く、事実をありのままに指摘していたが、まるで照れ隠しなっていないセリフに、一石は興味を示さなかった。

 アリ莫迦とは、一石の名が在将《ありばた》であり、アインシュタイン博士の名、アルバートをもじってつけられている事を揶揄《やゆ》した言い回しで、成績優秀な彼に対しての負け惜しみ以外の何物でもない。但し、彼をそう呼ぶのは、ヤン唯一人だけだった。

 因みにアインシュタインを日本語訳すると、ひとつの岩と言う意味がある。

 人名としては一岩、或いは一石となる。それを解説したのは、教師になる前はホテルマンをしていてドイツ語も出来ると言う変わり種の、彼らの英語教師だった。授業中に何故そんな話になったのかヤンにも、一石にも分からなかったが、たぶんクラス中の誰も分からないような理由だったのだろう。

「在将《ありばた》君の御両親はきっとシャレ好きなのだろうね」

 とその教師は言った。名前負けしていないのは流石だと、言わない辺りがホテルマン出身らしい気遣いだったろう。ただ、それに気づいた生徒がどれほどいたかは疑問が残る。

 一石が先日と同じようにヤン少年の部屋に折り畳み式の小さなテーブルを開き、中央に座る。その左にヤン、右には九が座った。前回と違ったのは3人の前にそれぞれ、アイスコーヒーが注がれたグラスが、最初に置かれたことだった。来訪の目的を一石が「三人でテスト勉強をするんです」とヤン少年の母親に告げたからであった。

「頑張りなさいよ」

 世の主婦が皆そうするように、まるで身を守る盾《たて》みたいに丸盆を両手で胸の前に抱え、去り際に矢野夫人は言ったが、それは彼女の息子にのみ、向けられたものだった。彼女は一石が学内主席であることを知っていたし、九はもとより学校成績に関係がない。

 母親が退出するなり、ヤンが口火を切った。

「それで、何か分かったのか?」

「ふん、探せば出てくるもんだ。おかしな話ってヤツは」

 やはり小馬鹿にしたように鼻で笑った後、一石は話始めた。

「先ず、1984年、今年の4月9日のことだ。三陸沖でキノコ雲の発生が確認された」

「キノコ雲」

 二人は声をそろえて言った。年下の方はそれに由来する出来事を想像していて、年上の方は或ゲームキャラクターを想像していた。

「ペンタゴンでも騒ぎになったらしい。しかしどこにも原子爆弾を使用した国はなく、放射能の欠片《かけら》も発見されなかった」

 放射能の欠片。と言ったのは一石特有の比喩だった。

「その後5月に京都で34才の種村と言う男が消息を断っているが、ただの失踪かも知れん。ただ……」

 二人は身を乗り出した。

「山友美保と言う20才の女性が6月4日にやはり消息不明になっているらしい。これも単なる駆け落ちかも知れん。だが」

「だが?」

 再び異口同音が同時に発せられる。

「もしそれが、神隠しのビリヤードだとしたらどうだ?」

 一石が珍しくハッキリと疑問符付きで訊いた。

「神隠しのビリヤード?」

 再三のデュエット。

「分かり易く言ったハズなんだがな」

 一石は、やっぱりかと言う顔で天井を見やり、片手でコーヒーを揺すった。

 さて、どうやって出来の悪い生徒二人に教示したものか。一石自身が矢野夫人に告げた通り、彼らは実際に三人で勉強会をすることになったわけで、彼の言葉はあながち嘘ではなかったのである。もっともテストには、いささかの関係もない内容になるのだが。

 一石は視線を戻して講義を開始した。

「誰かが或る時、忽然《こつぜん》と姿を消す。昔話にも在るくらいよく有る話だ。それを神隠しと呼ぶか失踪と呼ぶかの違いはあっても、第三者にとってその実態は変わりないわけだ。今回のケース。つまり佐々木理央なる人物が、2009年なんて言う時代から突如として消えて、今俺たちの目の前にいる場合だ。まさかタイムスリップなんて考えもつかないハズだ。もちろん、警察が在れば捜索願いが届けられ、家出人、失踪者扱いで登録されるだろう。だが、実際はその時代のどこをひっくり返して探したって、佐々木理央は存在しない。だからあっちの時代から見れば、神隠し、と呼ぶのは妥当《だとう》だと思うが?」

 生徒の質による必要からか、どうやら一石は今回から疑問符を使う方法を採用したらしい。おかげで生徒の側は、首の動きだけで理解の可否を伝達する機会を得ることが出来た。二つの頭は今回は縦に動いた。

「前に言ったが、人間一人を時間跳躍させるためには、俺たちが宇宙と呼んでいる、銀河系だのアンドロメダ星系だのを含めたセカイが、別にもう一個余るほどのエネルギーが必要だ。分からなくていいから、マイナスエネルギーとか、反物質とかってヤツだと思ってくれ」

 二人の反応を見る。とりあえず、分からないが納得はしたらしい首の動きがあった。

「ここからは俺の仮説だから物理学の常識とかを持ち出さないでくれ。まあ、その心配はないな、続けよう。じゃあ仮にこの時代にタイムスリップして来たのが佐々木理央でなく、ビリヤードの球だと考えるとどうだろう。つまり、球が別の球にぶつかって跳ばされた。それがたまたま佐々木理央と言う球だったとしたら?」

 首が二つ傾《かし》いだ。仕方なく一石はノートを開き下手な図を描き説明し直す。

「この四角形が時間と思え。ビリヤードテーブルの部分だ。二つの白球が誰かで、赤球が佐々木理央とする。誰かがどこかの時間から移動して来て赤球にぶつかる」

「赤球は突き跳ばされて今いた時間位置から移動する。もし赤球が移動した先に別の白球が在ったら同じ事が起きるだろ? これだとエネルギー保存の法則は守られる。一個が入って来て一個が出て行く。プラマイゼロだ。分かるな?」

「うん」ヤンが返事をした。九(つまり佐々木理央)も頷いている。

「理央の代わりに誰かがあっちにやって来て、理央はここに跳んで来た。しかしこの宇宙は凍結も蒸発もしていない。エネルギー保存は保たれている。ってことは、誰かがどこかへ跳ばされた」

「それが山友美保さん?」

 九が確認する。

「俺はそう考えたいね。同じ女で年だって近い。エネルギーバランスってのは同質じゃなきゃ。36のオッサンと、あんたが同質と言われて納得出来るか?」

 皮肉っぽい笑いを一石が九に向け、彼女は横に首を振った。

「でも日にちが合わないぜ?」ヤンが言う。

「おー、お前からその質問が出るとはな。上出来だ。ちょっと難しくなるがよく聞けよ」

 不出来な生徒の思わぬ反応に教師は喜びを隠さなかった。

「5個の球の振り子でカチカチやるオモチャあるだろ。1個振ると反対側が1個、3個ならちゃんと3個反対まで振れるヤツだ」

「あー」二人が口を開けた。

「あれは正確には、運動エネルギーの保存法則を表しただけの機械なんだが、今言ったビリヤードの話と同じだ。では、右の振り子がぶつかった時間と、左の振り子が振れ出す時間は一瞬の差もなく一緒か? 振り子の数が10万個だったら?」

「そりゃ、ズレるだろうけど」

「そう、運動エネルギーの伝達でさえ距離によって時間がかかるってことだ。今回はなにせ時空ってスケールだ。単純な距離なんかじゃない。時間の移動に時間がかかるってのも面白い話だが、或る程度の時差は在っていいだろう。要は最終的にエネルギー保存法則が守られ、バランスが取れていればいいと考えよう。答えさえ合ってりゃ、この際良しだ。そもそもがあり得ない話のハズなんだからな。ただ……」

「ただ? 何?」

 問い返したのは九だった。

「何で時間跳躍が起こったのか。それが分からないと……」

「当然、戻る方法もない?」

 言いよどんだ一石のセリフを九自身が引き取った。空気が10キロほど重く感じて、一石と九はグラスを口に運んだ。術《すべ》もないとばかりに。

 もう氷は、半分も残っていなかった。

 一拍の間を遅れて、ヤン少年もグラスを取った。言いかけた言葉を飲み込むために。

 もし戻れないなら、ずっとここにいたらいい。

 彼はそう言いたかった。だが言えないのは、それが彼女の望むものではなく、彼の勝手な欲望なのだと、少年が自から理解したからだった。

 彼には口の中に広がるコーヒーが、酸っぱさと苦味だけで出来ていると感じられた。それは10代後半という、切ない年齢の味だ。彼がそれを理解するためには、もう数年は人生の経験が必要となるのだろう。しかしそれを彼に教えてくれる者は誰もいなかった。残念ながら。

 一石や九とは違った意味で、ヤン少年にとっても、やはり空気は重たかった。

 カタン。一石が飲み干したグラスをテーブルに置いた。その音で空気は重荷を下ろし、元の身軽さを取り戻し、話題も戻った。

「人為的《じんいてき》に時間跳躍をする方法は現在にも2009年にもない。それはハッキリしている訳だ。ならそれが起きたのは自然的なものだ。俺たちが言う偶然のイタズラとか、奇跡ってもののせいでなきゃならない。でないと考えが先に進めない」

「そりゃそうだな」

「てな訳で仮説を広げる。それには時間とは何かって話が必要になるが、そいつは大学院にでも入って研究するような事だ。だから、かいつまんで説明する。先ず、時間には前と後ろしかない。右や左、上下も基本的にない。これを一次元と言う。紙に引いた線のセカイだ。但し、その線が直線である必要はない。ミミズがのたくった跡みたいでも構わない。とにかく前と後ろだけ。いいか?」

 コクンと二人が頷いた。

「そこで今度は三次元から一次元を見てみた場合。物理学では時間に形があるって事になってる、漏斗《ろうと》みたいな、いびつな円錐らしい。モデルを見せよう。ヤン、スキー帽持ってこい」

 名指されたヤンはタンスをごそごそとあさり、青い毛糸のニットキャップを見つけ出した。

 一石はそれを逆さに開いて見せる。

「まあ、こんな形と思え。ポイントはコイツが編み物だって事だ。では編み物とは何だ?」

 一石の目は九に向いている。

「一本の毛糸で色んな物を作るのよ……」

「そうだ、もっと言えば一本道の一筆書きで、色んな面を作る事が出来る。平らな面や曲面を、こんなふうに」

 一石は帽子を振った。

「毛糸も時間も一次元」

「この毛糸が俺たちの生きている宇宙の時間の流れだとする。流れるのは前方向だけだから糸の最初からたどって行くことになる。糸を10センチ進むなら、どんなに複雑に曲がりくねっていても10センチだ。ところが」

 二人は教師である一石の顔を真剣に見ている。

「このニット帽みたいに時間が編み物状だった場合、あちこち時間の糸は接して絡んでいる。始めから10センチの部分と40センチの部分が実はすぐ隣に在ったりする訳だ。編み目の所だ。ここまでは分かるよな?」

 二つの頭がまた縦に振れる。

「もちろん時間の糸は隣り合ってるだけで、混ざり合ってる訳じゃぁない。が、もし」

 そこまで言って、一石はニットキャップの裏に飛び出している洗濯表示タグを確認した。

「毛、アクリル、50パーセント混紡《こんぼう》か。おあつらえ向きだぜ」

 彼はポケットからライターを取り出し、やにわにニット帽をあぶり出した。

「ああ!」ヤンが叫ぶが一石は気にしない。

「騒ぐな。あとで俺のL.L.Beenをくれてやる」

 化学繊維独特の焦げ臭さが立ちのぼって、チリチリと編み目が溶かされ癒着《ゆちゃく》した。

「こんな具合に、接した時間が何かの拍子にくっついたとする。その瞬間に時間の糸の10センチの点から40センチの点に移動する。その逆も考えられるが、このくっついた状態を作ってるのがワームホールって言われるモノだ。ついでに教えておくと、今俺がやったみたいに、無理やり時間を、正確には時空間を人為的に歪めて近道するのがワープ航法」

 九は帽子の糸を指でなぞり、焦げてくっついた編み目の部分を撫でていた。何かを確かめているみたいに、繰り返し何度も何度も。そして何かを考えているようだった。彼女の仕草が、ヤン少年にはそう映っていた。たぶん、2009年のことを考えているのだろうと、なんとなく、彼は感じた。

 2009年。いったいどんな時代なのだろう。あと25年が過ぎれば、その年がやって来る。自分はそんな先の時代まで生きているのだろうか。生きているとすれは43才になっている。

 なんと43才! 18才の少年には余りに遠い未来だった。何をどう考えても、43才の自分を想像することが彼には出来なかった。もし、その時代に自分が生きていたら、その時の彼女に出逢うことが出来るだろうか? たぶんそんな事はないだろうな。

 と、ヤンは今、18と言う年で、彼女に出逢えたことに超常的なものを感じていた。改めて。

 彼女がタイムスリップして来なければ、自分は彼女に出逢うことが出来なかったのだ。それも偶然、あんな誰の思い出すこともない高速道路の、忘れられ、打ち捨てられたバス停で。

 こういうのを、世の女の子たちは『運命』と呼ぶのだろうな。

 一石が聞いたなら、「乙女チックなことだ」と鼻を鳴らすに違いないことを、『如何にして彼女は時空を超えたか』と言う壮大な科学的講義を聞きながらヤン少年は考えていた。その動機を自覚するのは、いったいいつになるのか、それは誰にも分からないことだった。もっとも一石などは、ヤンが彼女に対し抱いている想いなど、とうにお見通しであって、茶化す気にもならないほどバカバカしく思っていた。

 では九が、ヤン少年をどう思っているのか。それについては彼女本人にすら分からない。と言うよりは、それどころではない、と言ったところが実情だったかも知れない。少なくともこの時点において、彼女の意識は自身の行く末にその全精力が向けられていた。

「強引な理論展開だがつまり、俺たちのいる1984年が、仮に帽子の糸の10センチの点として、佐々木理央がいた2009年が40センチの点だったとしたら。ここに何らかの理由でワームホールが空いたんだろう。そのワームホールは、恐らくアチコチの時空間に繋がっていた。そして色んな形で玉突き的に、物質の時間跳躍が連続的に起こった。それはまだ続いているかも知れん。これが現在、俺の考えられる範囲で一番可能性の高いと思われる結論だ」

 図書室のアインシュタインは言葉を結んで、彼の生徒たちに『何か質問は?』といった視線を向けていた。

「メリークリスマス」

 何の脈絡もなく文脈に無関係な言葉が聞こえた。

 九の視点があらぬ所を見ている。

「メリークリスマス……」

 1984年6月23日の深い午後。彼女はもう一度つぶやいた。アイスコーヒーのグラスは、溶けた氷の分だけ、琥珀色の液体を残して固く沈黙を守っている。

藍毅【9】

 3月の半ばを過ぎ、桜の開花予想がニュースに流れるようになっても、寒さは依然《いぜん》として温《ぬる》んだとは藍毅には感じられなかった。

 張り込みを始めてから3週間が経っていた。托鉢《たくはつ》をしない偽僧侶のおかしな格好で、今までに警官にとがめられなかった事は幸いだった。

 だがまた、これまで悟りが開けそうなほど、あらゆる自然的な苦痛を経験した。雪深い山の頂に登り、朝の太陽を礼拝する古《いにしえ》の行者のような、極めて貴重かつ、一般の人々なら一生しなくて済む類いの体験をだ。ヤクザやマフィアでさえも。

 寒さの身を切るような痛み、立ち続けるための足や脚の骨と筋肉や、膝、腰、肘、肩関節などの異様な凝りと痛み。12時間にも及ぶ定点観測のため、食事はおろかトイレにも行けない。違和感の無いように海老茶の布にくるんだ900ミリリットルのペットボトルに、飽和するまでの砂糖と、わずかな塩を溶かした水を、一時間に一度、舐めるようにすする以外に補給はできない。なまじの補給は胃を刺激し、その空腹感たるや、言葉の及ぶところではない。自分の腕を噛じろうかと思ったほどだ。

 これほどの、ただ事ではない苦痛に、耐えていられるのが藍毅自身、驚かずにいられなかった。アメリカ兵が入隊直後、徹底的に教官に虐められ、その憎しみを糧に敵地に送られる理由がその時の彼には、よく理解出来た。

 人間の感情で最も強い物。残念なことに、それは誰かを愛しむ想いでも、何かからの迫害や、死に対する恐怖ですらない。

 怨念と憎悪。それこそが、あらゆる感情をはるかに凌駕《りょうが》する。

 兵士には、それが死地で生き残る最大のエネルギー源になるのだ。

 先に撃たなければ、先に撃たれ、仲間か自分が殺られる。誰かが倒れればもう、そこは底のない敵意と憎悪の泥沼だ。「よくも!」

 今、藍毅を支えているのは、寸分違《すんぷんたが》わずそれと同質の物だった。

 しかしそれほどの思いを味わっても、いまだ収穫は何もなかった。得た物はシモヤケとアカギレに侵《おか》された二つの足と、途方もない徒労感だけだ。

 考えてみれば、あの男を見つけたのはサラリーマンの退社時刻間近の夕暮れ頃だった。何も朝から、酔っ払いがあふれる夜更けまで、立ち続ける必要はなかったのではないか? 今更ながら藍毅は自分の発想に疑問を覚えた。

 いや、可能性はこの場所しかない。いつ何時あの男が現れるか分かったものではないのだ。これが最善の方法だ。

 藍毅は自分に言い聞かせながら、今日もまた「ノウマク サラバタタギャテイ……」と唱えながら、目の届く範囲をカメラのワイドショットよろしく、漫然と、だが注意深く眺《なが》め続ける。

それを映像として記録していたなら、深夜番組のあと、埋め合わせに流れる風景だけの無意味に思える空白の時間に使えそうだった。例えば、オーバーな観客の反応がウリのアメリカの通販番組のあと、朝のニュースが始まるまでに流れるようなそれにだ。エリック・サテイだか何か物憂いピアノが微妙に印象深い、ニューエイジ的適切なBGMを付けさえすれば。

 それとも、もうTVにそんな番組とCM以外の、無駄な時間など無いのだろうか。

 もし双子の人生の話をした、あの誰かがいたら「そいつはフィラーと言って放送画質や音質をチェックするため、毎日欠かさず行われる。当然、番組中には出来ないから全番組終了の後にそれをやるんだ」と彼に教えてくれたかも知れない。しかしその誰かは彼のそばにいない。そして彼も、誰かの事に関心が向なかった。

 その目は毎日、あらゆる苦痛に耐えながら、目的の人物を捕らえるためだけに、焦点を探している。

 頭の奥で、車の下敷きになって死んだ友人の声が聞こえる。

「オマエ、根性あるよ」

九【10】

「メリークリスマス……」

 宙に浮いたその言葉に一石が反応をしようとしたその時だった。階下でドアチャイムの音。

 ヤンの母親は留守だった。「理央ちゃんの着るものを買わなくちゃ」とイトーヨーカ堂へ出掛けていたのだ。

「矢野さん、こんにちは。交番の者ですが、いらっしゃいませんか?」

 再びチャイムが鳴らされる。三人に緊張が走る。

「警察だ!」

 ヤンがうろたえ気味に声を挙げる。一石が言ったラングレーだかMi6だかが嗅ぎつけて来たのだろうか? そう思ったのは彼だけではなかった。

「取りあえず、出てみろよ。居留守はバレてる。プロだからな、相手は」

 一石に促されて階下に下りるヤン。

「ハイ、今、僕と友達しかいないんですけど……」

 そこには見慣れた紺の警官制服が立っていた。制服警官特有の印象は、巧妙にその顔を覚えさせない。その制服には何かしら、そういった機能が備わっているのだろう。少年に向かって制服は言った。

「ああ、こんにちは。お留守ですか。じゃ家の人にコレ書いてもらって下さい。地域住民カードって言うのです。家族構成と住所、全員の名前と年ね。それからお父さんの職業と君の学校名もね。毎年書いてもらってる物だから分かるハズです」

「あ、ハイ分かりました」

「あ、そうそう。あと、普段見知らない人などを見かけなかったか聞いてたって言っといてくれるかな? 家出人とか行方不明者を捜すのに役立つんです。では、ご協力をお願いします」

 それだけ告げると制服は会釈もせず、急ぐでもなく隣の家に歩いて行くと、同じようにドアチャイムを鳴らした。「鈴木さん、こんにちは。交番の者です」

「普通のお巡りさんだった」

「の、ようなもの。だな……」

 二階の窓からヒョイと顔をのぞかせて隣家《りんか》の様子を窺《うかが》う一石。

「アナタの日本語だってヘンじゃないよ」

 九はさっきの仕返しとばかりに一石に言った。

「いや、僕らが中学ん時にね、『の、ようなもの』って題名の映画があってラジオでしょっちゅう宣伝してたんだよ。それのパロディのつもりなんだ、コイツ」

「お前に助け舟を出されるのは気持ちが良くないな。パロっただけじゃないんだな、コレが」

 またも彼特有の持って回った言い方が九には癇《かん》にさわる。

「どう言う意味かな? お姉さんに教えてくれるかしら?」

 わざとらしく年上ぶってみる。

「どう言う意味だよ!」

 置き去りにされまいと、ヤンも勢いからんでくる。

「誇大妄想と疑心暗鬼の色眼鏡で見れば、タダの警官もおざなりには出来ないって事だ」

「おざなり。って何?」すかさずヤンが訊く。

「ママが買ってくれた辞書を引け、莫迦《ばか》め」

 そうヤンを跳ね返しておいて、一石は続けた。

「ここ2、3年から最近まで、UFOだ宇宙人だと騒がしいだろ? MJ12なんてのまでできてるくらいだ」

「えむじぇいてゅえるぶ?」

「基本は外宇宙生命体との接触や交信の可能性を調査し、アメリカの軍事開発の役に立てようって思惑の機関だ。もっとも最近は週刊誌やテレビのネタにおちぶれているがな。そしてそこには当然CIAも関係している」

「だから?」九が促す。

「我らが佐々木の理央姉ちゃんが、この時代の人間でないことが国やその筋に知られた場合。ヤツらは未来人と考えるより宇宙人と思うだろう。だから言ったろ? 解剖されかねないってさ?」

 しれっと恐ろしいことを再度言ってのけた。

「でもどう見ても普通のお巡りさんにしか見えないよ」

「ああ、そりゃー本当にお巡りだからな」

「ただ何故この時期に地域住民調査? 普通は引越しシーズン明けの4月頃だろ。しかも独身用団地でもない、表札掲げた一戸一戸に来るか? 引っかかるね」

「ひょっとして、お前、俺が莫迦《ばか》だと思って、話を面白くしようとしてないか?」

「それは、当たらずとも八割程度の事だ。気にするな」

「それにしてもよくもまあ」

 九は8割がた半は呆れた顔で、冗談でも言わずには正気が保《も》たないとばかりに、超有名人のコントにあやかって、一石の呼び名をもじってみた。

「次から次と、とんでもなく胡散臭い事を思い付くよね。アイーン君は」

 しかし残念ながら彼らには通じなかった。まだ流行る前だったようだ。

「とんでもない事態を持って来た本人様がナンか言ってるぞ? なんにしてもだ。ヤバい物は早く処分するんだな、冗談じゃなく。あと身元もでっち上げる準備《テ》も打たなきゃならん」

 飛んで来る一石の要求は矢継《やつ》ぎ早で、二人は考えが追いつかない。ヤンなどは聞くだけで精一杯の態《てい》だ。

「もっと具体的に言ってよ」

 ようやく九が理解の糸口を見つけて言う。

「とにかく1984年に存在しない物は全部棄てるんだ。下着も、カバンも機械類と財布中の新札もろとも全部だ。どこか誰にも捜せない場所に。そうだな、多摩湖がいい。あそこに放り込んで沈めよう。チャリンコなら1時間半くらいで行くか?」

 既に決定された事のように、一石はヤンに確認をした。それを九は身を乗り出して制する。

「ちょっ、ちょっと待って、待って。下着って何よ! 関係ないじゃない!」

「デザイン、繊維の種類や技術などは進化していないのか?」

「だ、だからって身ぐるみ剥いで沈めるとか、簡単に言わないでよ。まだそのナントカ12だか、CIAとかに決まったわけじゃないんだし、お金まで棄てるなんて…… それに、アタシにだって、いろいろ有るんだから写真とか、大事な物とか」

「命よりもか? 俺は構わんぜ? 解剖されるのは俺じゃないしな。確かに、アンタ自身が消える事が一番の解決策だ。俺もどっかの莫迦《ばか》も受験に専念できて、めでたしめでたしだ」

 このクソガキ! と、さすがに九は手を出しかけたが、眉間に皺《しわ》がよるのを、ぐっと息を呑み込み押し止めた。

 今は小憎らしい一石と、ヤン以外に頼る相手はないのだ。ここは冷静にならなければいけない。アタシは大人なのだから。

 九の自制心のおかげで、張り手をまぬがれた当人は、それを待っていたかのように話題を戻した。

「で、クリスマスがなんだって? プレゼントでもくれるのか? 今までの事なら礼には及ぶぞ?」

 「むちゅー」と、わざとらしい声を出して唇を突き出す。すかさず、その頭をヤンが叩《はた》く。

 彼のどこまでが、ふざけているのか本気なのか、九には分からなかった。

「頭を叩くな。脳細胞が減る。オマエみたいな莫迦《ばか》にダケはなりたくない」

「ダケってなんだ、ダケって、一石アリバカ!」

 こういうやり取りを見ていると、いかにも高校生らしいなと、九は幾分《いくぶん》懐かしい感じもして、微笑ましいなと思った。

 もちろん彼女は、6月の終わりにクリスマスを祝うつもりなどなく、iという男と出会い、夜を共にした12/24を、胸の内に思い描いてはいた。

 しかしその思い出は、彼女が元いた時代に帰る方策《コト》に関して、悲しいかな何の役にも立ちそうになかった。

 彼女が口にしたのは、別のクリスマスに関してだった。ついでに小生意気なマセガキに、一言やり返したかったのだが、九は自ら認める通り、彼ほど頭の回転がよくなかった。

「違うわよ。メリークリスマスなんとかって歌を聞いたのよ。タクシーの中で。ウタダヒカルの…… っても分かんないだろうけど。昔の、って言うか最近の? なんとかメリークリスマスって映画の曲。言わなかった?」

「なんとかメリークリスマス?」

 ヤンが繰り返す。

「そう」

 一石が面倒くさそうに口を開けようとした、その一瞬。

「戦場のメリークリスマス!」

 ヤンが自慢気に叫んだ。

「あ、それよ、それ! よく分かったわね」

 九も嬉し気にテーブルを軽く三度打った。一石が答えていたなら、彼女の反応はもっと冷ややかなものであったに違いない。

「情報が少ないと、自然、選択肢は狭《せば》まるからな。莫迦《ばか》にも分かるさ。オッカムのカミソリを使うまでもない」

 ベッカムなら知ってるんだけどな。とは、さすがに彼女はもう口にしない。かといって『オッカムのカミソリ』なる物が、何を意味するのか当然知りはしないし、もはや知りたいとさえ思わない。ただ、彼は本当にヤンと同じ公立高校の生徒なのだろうかと、不思議に思うばかりだった。

 またヤンが、オッカムのカミソリに関し、訊《たず》ねなかったのは「お前に理解は出来ないから訊くな」と、一石の視線が彼を制していたからだ。

「で、戦メリが?」

「えっと。それが今年テレビでやるってゆうのを、何でか覚えてるのよ、アタシ。坂本龍……馬? がラジオで言ってたの。ラジオなんか聞く人じゃないのにね、アタシ」

 固有名詞の間違いについては一石もヤンも指摘しなかった。誰のことかは二人とも、すぐ理解出来たし、それよりは、彼ら二人がまだ知らぬ、起きてもいない事柄を、彼女が 『予言』 したことの方が問題だったからだ。

「その今年ってのは、今、現在の今年のことでいいんだな?」

「そうよ。まだアタシが生まれもしないコノ、1984年よ。それって、おかしくない?」

 一石が腕を組みなおし言った。事実の認識と、確認を兼ねて皮肉混じりで。

「アンタがこの時代に大分《だいぶん》慣れてきたのと、何十年か先の日本語が、存分《ぞんぶん》におかしいのは十分《じゅうぶん》に分かった。が」

 彼にしてはずいぶんと韻《いん》を踏んだ表現だったことにヤンは気づいた。こういう如何《いか》にもわざとらしい表現の後には、ほぼ90%彼は自分にとって芳《かんば》しくない事を言うのだ。

「が…… 分からねーのは」

「分かったけど、分からねーって何だよ?」

 問い返しながら、そら、来るぞ。とヤンは心の中で身構える。

「実を言うと、俺にも幾つか変な違和感が有る。例えばアンタに既に逢った気がすること」

「前にも言ったが、アンタの例のキラキラ飾られたモノが、恐らくはこの時代の科学技術を、とんでもなく超越した何かだと感じること」

 一つ一つの言葉を、いちいち区切りながら一石は言う。

「そして、最も重要なのが、今の話だが。お前、どうだ?」

 最重要と言いつつどう重要なのか結論を述べずに、九から視線を外し、一石は体ごとヤンに向き直った。

「何か思い当たらないか? 理央(九)と前に逢った気はしないか?」

 そう言われてヤン少年は理央(九)にチラチラと横目の視線を送り、次第に頬を紅らめる。

「分かんねーよ。何も」

「あーあ、色惚《いろぼ》けに訊くだけ無駄だったなぁ」

 どうやら一石は宗旨《しゅうし》替えしたようである。

 今までの彼なら他人の色恋事など興味も持たない主義だった。

 ヤンの子供っぽい恋心など、茶化すのもバカバカしいと思っていたハズなのだったが、このままだと彼が理央(九)に、それを打ち明けるには、永遠に近い時間を要すると判断したようだ。

 ここは友人代表として、背中を押してやるべきだろう。

 一石自身、『当時その理由をハッキリとは認識出来ていなかった』のだが、彼がそんな気になったのは、ようするに、奥手の友人の様子を面白がってみたかったのかも知れない。

「何にしても。矢野のおばちゃんが理央の服を買ってくれるのは好都合だ。着替えたらすぐ行って来いよ」

「え? もう?」

「おう、そうだ、原チャリなら2ケツでぶっ飛ばせるじゃねーか、お前JOG《ジョグ》出せよJOG!」

「JOGは親父のだ、ヤバいよ」

「マグレでも四つ輪の免許取れたんだろ? お前が唯一、俺に勝る点だ。今のところ、だがな。今そいつを利用しないでいつ役立つんだ? 使わねーなら伊達にもならんぜ」

 ヤンは卒業後、父親の仕事を継ぐため、4月の誕生日が来ると同時に教習所へ通わされた。(母親は国公立大学を受験させるつもりでいたが、その高校では前人未到の事跡であり、唯一達成を期待されているのが、一石在将ただ一人だった)2ヶ月みっちり通い詰めた甲斐《かい》があって、なんとかギリギリの点数でヤンは合格を果たしたのである。

 一石の思惑は、理央(九)の身分隠しのついでではあるが、その道に関しても奥手極まりない友人に、デートの機会を与えてやろうと、わざわざ近いとは言い難い貯水池に行かせるつもりなのだ。

 もちろん主とする行為の必要性から、何物も発見されにくい、深い水底が最適である事が最大の理由には違いない。

 かくして母親の帰宅後直ぐ。ヤンは、卸したてのYAMAHAJOG50ccバイクに跨る。背に香《かぐわ》しい乙女の(あくまでヤンにとっての)髪の香りと、押し付けられる双球の弾力に、気もそぞろで。

 バイクは独特の匂いの煙を残して、風を切り始めたところだ。

藍毅【10】

 彼は今も立っていた。その渋谷駅北口。ブロンズのハチ公の背に一本。向かい側、カエルみたいな目蒲《めかま》線の古い展示車両越しに一本。桜の木が植えられていることを、知っていた人は、一体何人いただろう。毎日行き交う中で。

 2009年4月2日。藍毅《あいき》は生まれて初めて、それを知った。

 薄すらと、仄《ほの》白く開き始めたそれは、彼が如何《いか》な思いで世界を見渡していたとて。嫌が応にも彼の視線を、奪わずにおいてくれなかったのだ。

 いつの間にか季節は移ろい始めており、人もまた移ろい始めていた。春が来たのだ。

 春はいずれ夏となるのだろう。放って置いても、セカイは、変わっていく。或いはすり替えられていく。誰も知らないところで、ひっそりと。

 三分咲きと言ったところだったろうか、その花の下《もと》。せっかくの風情《ふぜい》も台無しに、男は現れた。

 派手なキャップを斜《はす》に被り、ボア付きのライムグリーンのダウンジャケット。だぶだぶのジーンズをずり下げ、携帯電話で何やら吠えながら、下卑た笑いを浮かべ、すぐ側に仕切られた喫煙エリアを無視して、ハチ公の真正面でマイルドセブンに火を着けた。

 藍毅《あいき》の捜し続けた、待ち焦がれた『あの男』だ。もちろん彼が見逃すハズはなかった。遂に網に掛かったのだ。

 ずいぶんと痩せ衰えた体に、炎が走るのを感じる。藍毅《あいき》は目標を見失わない程度に位置を移動しつつ、僧侶の格好を解いていく。笠を外し、頭陀袋から紺色のビジネスコート取り出し羽織ると首元までジッパーを上げると、一気に印象が変わる。問題は下半身だ。人前でズボンを履くのは相当に目立つが背に腹は代えられない。彼は堂々と、目標の前を横切り、ハチ公広場のベンチでズボンを上履きし、裸足草履を、革靴に履き替えた。隣の外国人観光客は不思議そうに見ていたが、『あの男』の目には止まらなかったようだ。

 もちろん藍毅《あいき》がそのように動いているのだが、それでも緊張の数瞬だ。注意を引いてしまえば、このあとの尾行が困難になる。頭陀袋からナイロンショルダーバッグを出し、脱いだ物を放り込んで変装は終わった。

 男はまだ携帯電話でくだらなさそうな話を続けている。

 シチュエーションは最高だ。長い間の藍毅の苦行は報われつつあった。

 野郎、いい歳をして見るからに遊び人の格好をしていやがる。

 藍毅《あいき》の年齢を考えれば、男はもう40にはなっている計算だ。実際遊び人なのに違いない、と彼は決め付けた。無論、根拠はない。

 しかし誰が見ても、それ以外には見えそうにないことも確かだった。

 だがまた、渋谷のように雑多な人間の集まる場所で、一見、派手なようで違和感なく馴染んだその風貌は、場慣れしていると言えば良いのか、ある種の年季をも醸《かも》し出していた。

 男は、やにわに手を上げた。

「こっち、こっち、ここだよー」

 その仕草に一人の女が、体格に比べて大きめに見える COACHのトートバッグに、携帯電話をしまいながら人の流れを横切って来る。

 まだ若い女だ。明らかに周囲から浮いた、地方出の感がある。きっちり化粧をし、精一杯上品にオシャレしました、と言わんばかりのいでたちだった。

「おー、写真より綺麗だねー! カッワイイー! 即戦力間違いなしだよ! お疲れー」

 男は歯の浮くような言葉を並べ立て、自分から進んで女に近づいた。

 写真? 即戦力? 

 水商売関係のスカウトか? と藍毅《あいき》は勘ぐった。

「ハイ、一応名刺ね。今日はラフな格好で来たからアレだけど、私が藍堂深津己《らんどう・みつき》代表やってますって、もう知ってるよね。とりあえず宜しく。じゃ、あとは事務所の方で」

 男は砕けた口調と高い声とは裏腹に、キチンとビジネスマン風に両手で名刺を差し出し、驚いたことに15度ほども腰を折った。

 洗練。とまでは、いかないにしても、そこには、やはり手慣れたを何かを感じさせた。

 女が言った。

「スイマセン。社長さんに迎えに来ていただいちゃって」

「イイのイイの、うちは小さなダクションだしね。業界は数より顔繋ぎのスピード、機動力なのよ。だから大手と同じくらい顔広いよ、うちは、悪いけど」

 二人はもう、スクランブル交差点を109前まで渡っていた。その2メートル後ろ。男が振り向いても女の陰《かげ》が死角になる位置を、藍毅《あいき》は歩いている。尾行。

 張り込みの後、深夜まで本物の探偵屋が書いた本や、嘘が誠か分からない調査マニュアル等を読み漁った成果は今のところあったようだ。

 勿論、少しずつ実際に訓練を積んだ藍毅《あいき》自身の真剣さ(動機は不純を遥かに凌駕《りょうが》していたとしてもだ)が、それを実のあるものにしたのは、言うまでもない。

 特に張り込みや尾行についての記述や情報は、1冊に数ページ有るかどうか、あまりにも少なすぎる上、なおかつチームでの行動を前提にしていたのだから。

 何の後ろぐらさも、いわれもなく後を尾行《ツケ》られた善良な市民は、さぞかし迷惑だったろう。気づかれていれば通報されても文句は言えない行為だ。

 また深夜に誰かを追尾するのは、想像以上に難しく、(張り込みの都合上、藍毅《あいき》には、それしか時間を選べなかった)訓練中は何度も失尾《しつび》した。それに比べれば繁華街など隣を歩けるぐらい簡単なものだ。

 事実、彼はそれに近い状態で男に張りついている。失尾するのは車に乗られた場合ぐらいだろう。実際に前回はそれで失敗している。

 もし今回も同じ結果だったならば、藍毅《あいき》の難行苦行と言って差し支えない、延べ1300時間を越える93日間の膨大な労力。疲弊《ひへい》した精神、並びに預金、加えて失った、8キロ余りの体重も、全くの水泡に帰することになる。

 彼が苦心のすえに編み出した、定点観測の張り込み手法は、FBIが使用する『ターゲットを尾行しない尾行方』と実は相似していた。

 ただし、それは本来的に人海戦術であり、一人が90度の視界を受け持ち、ワンブロックづつを監視する。

 極端に言えば、曲がり角ごとに一般人に扮した見張りが無線を取り合っているに等しい。車に乗れば乗ったで、ナンバー、車種、色、向かった方角等を随時連絡する。電波はスペースシャトルより恐ろしく速い。

 彼が費《つい》やした時間のほとんどは、実はソレによれば不要なはずのものであったのだ。だが、彼はFBIでも刑事でも探偵屋ですらなく……

 どうやら男たちに車に乗る気配は見受けられない。

 ツキはこっちに有る!

.

 藍毅《あいき》は躍《おど》りだしそうになる心臓を、落ち着け、落ち着けと、なだめ聞かせるのに苦労していた。

 二人は道玄坂《どうげんざか》を女のペースで登って行く。藍毅《あいき》も微妙に近づいたり離れたりしながら、声の聞き取れる範囲でそれに続く。このチャンスに少しでも多く情報が欲しかった。

 男の話はまだ続いていた。

「でもねー、うちから大手にスカウトされる子も多いんだよ。ほら、女優のアヲイ・メイサ知ってるよね? 彼女もうちからスタートしたんだよー。形としてはあちらさんに売ってあげたんだよねー、あの時は力負けしちゃってさぁ。オフレコだけど」

「え? あのアオイ・メイサさん、そうなんですか!?」

「そう、アヲイ・メイサよ。でもキミは幾ら積まれても手放したくないなー。今なら、うちの力でイケるはずだし」

男は時折、女の反対側へ数回顔を向けた。

 藍毅《あいき》はそれを見逃さなかった。車の切れ目ができた瞬間、藍毅は車道を渡り始めていた。すぐ後を女の肩を押し、男は車道を突っ切っり始める。案の定だ。

 彼は男たちの前を歩いていた。もちろん行き先が判かった訳はない。

 確かに探偵入門とやらにも『ターゲットの次の行動を多岐に渡り予測し、あらゆる行動準備をせよ』と記されてはいる。しかし、そうそう可能なことではない。

 例えば、ターゲットが一人で勝手知ったる道を歩いている場合。

 携帯の画面を見据えたまま何の予兆も見せず曲がったり、止まったりする。

 ましてや藍毅《あいき》が練習台に選んだターゲットたちは、ほとんどが帰宅を急ぐ人々だったし、人気の少な過ぎる夜更け。至近距離には近づくことは単独では不可能だった。

 豆粒ほども小さく見えるターゲットが曲がったあと、全力ダッシュで距離を詰めてみたものの、影も形も無く、オマケに五差路《ごさろ》で、来た道を戻ったのではないことだけが確かな以外、さらさら見当もつかないことなどザラにあった。

 だが今は男の口調で、女をどこかへ連れて行こうとしている。それは誰でも直ぐに読み取れる。

 藍毅《あいき》は男の首の動きで視線を想定し、どちらに進むつもりか、気配を察知したのだった。状況がそれを容易にした。

 仮に、男らが渡って来なくとも、声は聞こえなくはなるが、視認は可能で、再び道を越えるのも難しくない。

 そうした技量を彼の執念が、格段に上げていたのだった。

 坂を登りきった男たちは、松涛《しょうとう》郵便局の手前を、人気のない路地に入って行った。

 彼らはいまだ、尾行者がいるなど全く気づいていない。藍毅《あいき》は一旦、曲がり角を通過し、再度先に男らを行かせてから10秒ほどの間を空けて踵を返した。

 このまま行けば、男の拠点《ヤサ》が掴める。藍毅《あいき》は膝が笑うのを感じた。

 落ち着け! あと少しなんだ!

 自分に喝を入れる。ゆっくり深呼吸をした。もちろん歩きながら。鼻から音を立てず、できる限りゆっくり吸い込む。目一杯腹を膨らませて止める。我慢できなくなったら、口から吐く。やはり音を立てないで、ゆっくり。とてもゆっくり。

 男が或る建物に入った。普通のマンションのようだ。藍毅《あいき》は走って彼らに追いつき、オートロックの自動ドアを一緒に抜け、先にエレベーターのボタンを押した。

「何階ですか?」

「3階で」

 藍毅《あいき》は、ああ同じ階だ、という顔をしてドアを閉め操作盤の前に立った。

 音もなくエレベーターは動き始めた。

 チン。と、いわないエレベーターの方が世の中には多いのだ。 圧倒的に。

 あの夜を過ごしたホテルのエレベーターより洒落ているのに、その音が無いのは、何か悪い事の前兆のように彼には感じられた。

 ともかく、このようにして、どうにかこうにか、男の居場所を突き止めたのだ。コレだけ出来れば、特定所在調査の成功である。本物の調査会社に就職できるかも知れない。

 もちろん藍毅《あいき》にそんなアイデアは浮かばなかった。

 3階に着く。開くボタンを押したまま藍毅は左手のひらを上に向け、とうぞ、と無言で促した。男は、さも当然そうに、藍毅に目もくれず通路へ足を踏み出すと「こっちだよ」と女に首を右手に傾けて示した。

 二人が降りたあと、藍毅はゆっくりと逆方向へ歩きだすと、携帯を開いた。電話としてではない。画面を鏡として使うためだ。メールの振りをして後ろが映る角度に体を開き、立ち止まる。指でボタンをまさぐる。

 電源を落とした黒い液晶画面が、ミラー系の保護フィルムと相まって、映りの悪い鏡になる。藍毅《あいき》はそこに映るドアノブを数えていた。男がノブを引いた時、藍毅《あいき》は携帯を左耳に当て半分だけ振り返ると、所在無げに廊下の外の方を向いて「もしもし?」と無音の彼方に向かって語りかけ、右目の端で男たちの入ったドアを確認した。

 エレベーターから3つ目のドアだった。看板らしき楕円型のプレートに文字が見えた。

『CelebRich Starlight Agency』

セレブ・リッチ・スターライト・エージェンシー。

 ご丁寧にカナで大きく書き添えてある。

 思わず噴出しそうになるほどセンスのないネーミングだ。近づいてよく見ると、バックに自由の女神とレインボーブリッジの夜景写真を施してある。なるほど、有名人になりたい人々に対して、そこそこ訴求力は高そうだった。スーパーの特売チラシくらいには。

 ようやくあの男の居場所を特定できた。男の偽名も看板も分かった。芸能事務所を謳っているのだ。どうせインターネット広告くらいは出しているだろう。藍毅《あいき》はとりあえず携帯で検索してみる。『モデルオーディション毎月開催。登録無料。セレブへの登竜門・有名スター多数輩出』あっけなく検索トップに表示された。どうやらこれが現在、あの男の表向きのようだった。どんなことをやっているのかは藍毅《あいき》には分からない。だが、どうせロクなことはしていないに決まっていると考えるのは、彼にとって最も自然で正しい先入観に違いなかった。そしてその先入観が正しく機能したおかげで彼は、携帯WEBサイトの或る人物写真に違和感を見出したのだった。

 アオイ・メイサの、ほくろの位置である。

 「こういうのは、君の専門分野だと思うから訊くんだけど」

 その日の夜。新宿のアルタ裏手方向、歌舞伎町なのかどうかは藍毅《あいき》にはわからないが、人ごみの絶えない通りの地下にあるシガー&BAR。その奥の小さな円卓《テーブル》でミモレットをつまみながら、ボーモアーを飲《ヤ》るスミスに彼は訊ねた。

「大事なホームページの広告デザインに使う写真を、間違えて裏返しにするなんてことは」

「絶対にないね」

 言い終わる前にスミスが語尾を引き取って、質問は断定文に変えられた。

「俺の会社みたいに、まともな商売ならありえないさ。ただ、こんなグレーゾーンの業種は、ばれなきゃ良いってやっちまうことは多い。専門学生とかソレ系の会社を退社した元技術職の主婦を使って作らせる。在宅バイトってな。こんな写真に限らず。デザインそのものをパクッて画と文だけ差し替えてるようなのは五万とあるだろうな」

「そうゆうもんなのか?」

「ああ、そんなもんだ。にしても、上手いこと作ってあるぜ。単に裏返したんじゃなく、二重まぶたが一重になってるし、耳の形も違う。よく似た別人だって言い逃れられるぜコリャ」

スミスは自前のミニPCの画面を見ながら言う。

「よく判るな?」

「毎日。『 .』と『,』の違いで、とんでもないことになる仕事してんだぜ? 写真なんか並べりゃ一目瞭然」

「プログラマーってのは凄いもんなんだな」

 藍毅はため息に似た笑みをもらした。感歎と敬服を含んだ笑みだ。

「なーに。レベルによる。全てのプログラマーがそうってわけじゃないぜ」

「ああ、解ってるよ。で、つまり、こいつは偽のアオイ・メイサなんだな?」

「偽ってよりは、似せだね。もちろんこの世界の何処にも存在しない」

「この世界の何処にも存在しない」

 藍毅《あいき》はくりかえした。

「そう」

「ってことは、このモデル事務所は?」

「よくあるパターン。モデル詐欺か、風俗方面のお仕事」

 さも当然そうに、眉を丸く上げ処置無しといった表情でスミスは言った。

「で、アイキ君がこれに何か関係してるのか?」

「ん、ああ、いや、知人が引っかかりそうだったんだ」

「なら、一杯奢ってもらわなきゃな」

「OK、シンデレラを」

 藍毅《あいき》は有名なフルーツジュースだけのカクテルをオーダーした。ノンアルコールだ。

 スミスは鼻を鳴らして口を歪め、首を左右に振ったが文句は言わなかった。片面でしかめた笑みを見せた。

九【11】

 「へー、こんな所があったんだねー」

 その声は九のものである。九とヤンは、小一時間を、一回り半ほど過ぎて貯水池に着いたばかりだった。二人は長い橋の見える展望所の手すりにもたれて話し始めた。

「この辺はさ、夜になると車がいっぱいになるんだ。湖の回りでタイムアタック・レースする奴とか、デートのアベックとかでさ」

「アベック? うっわー、死語よそれ死語。やっぱ時代を感じちゃうなー」

「な、なんだよ! じゃ、そっちでは何て言うんだよ。その2009年でさ」

「んー。そーだーなー、カップル? くらいかな?」

「それなら今だって言うよ」

「ヤン君と話してるとホント、お母さんの昔話聞いてるみたい」

「そんなこと言ったって仕方ないだろう。それがこの時代の現状なんだから。そう言やー、理央さんのお母さんて何才? 何年生まれ?」

「39才。昭和45年だったっけな? 何? 占いでもするの?」

「そんなのする訳ないだろ。ただ、お母さんは今、この時代に生きてるんだろう? たぶん理央さんみたいにキレイなのかなー、とか思っただけ。そっか、4個下か。じゃまだ中学生だ。一緒にいたら妹みたいな感じかなー? 俺が18だもん」

 なぜかヤンは照れながら言った。

「同い年に見えるかもよ? 背もヤン君と同じ位あるし」

「じゃ理央さんと、お、お、僕だったらカップルに見えるかな? 背だって、お、僕の方が高いし」

 九は内心(あ~、そういうことか。少年《コドモ》は可愛いわね)と園児を見るのと、さして違わない気持ちになりつつ、彼女の目を避けるように頬を染めたヤン少年の面影が、あの『i』という男と重なって、反《かえ》って自分まで面映《おもはゆ》くなってしまった。ここは年長者としての面目を失いたくないところだった。

「そうね。あるんじゃない? 年下カレシも、ちょい流行りだし。君は優しいしルックスも悪くないしね」

 ヤンは(あるって何だ? 相変わらず日本語変だなぁ)と思いつつ問い返した。

「それって、OKてこと?」

「あれ? カップルに見えるかって話じゃなかった? その意味OKかもねってことよ」

 からかうように言った。いや実際からかったのだが、それは半分以上照れ隠しであり、少年の真っ直ぐな気持ちは、とても良く察知できた。伊達にサラ金嬢と呼ばれているわけではない。人の心の裏を嫌と言うほど見てきたのだ。だからこそ、半端に気を持たせるようなことは言えない。それどころか、少年が後数年して青年になった時を考えると、自分の方がそんな気持ちになりそうだった。そしてまた、そこに『i』という男の影が重なるのである。

「あのさ、一石の奴のことなんだけど」

「ん? 彼がなぁに?」

「アイツ、理央さんのこと好きなのかも知れない」

「へ? そうは思えないけどなー。そ、でもそうするとアタシはモテモテの年下キラーね!」

 九は笑った。

 

「冗談で言ってるんじゃないんだよ。アイツさ大学生の彼女がいたんだ。で、僕にさ、人間が一生でするSEXの平均回数を知ってるか? て言ってたんだよ」

「ぶ、流石アイーン君ね」

「それを彼女にも言ったんだって。一昨日さ。そんで、お前は俺とそのうちの何回スるつもりだ? って訊いたんだと」

「何ソレ、最低だなアイツめっ! そんな事、付き合ってる彼女に言ったら別離れようと言ってるようなもんじゃない!」

「じゃ、やっぱワザとだったんだな。アイツ曰く、彼女は頬を引っ叩いてお帰りになったんだとさ。『これで心置きなく次の女に行けるってもんだ。理央ちゃん可愛いと思わんか? 童貞君《ボクちゃん》』って言ったんだよ。僕にね」

「くーう。アタシも安く見られたもんよね。アイーンの野郎。その上でアタシの身包み剥いで水底に沈めさせたのか! 帰ったら洋服代ださせてやる!」

「あ、そのくらい大した事ないよ。アイツ、パチンコ強いから。財布にいつも五万以上入ってるもん」

「頭は良いは、金持ってるは、年上の女をもて遊ぶは、その上アタシにまで手を出そうってか! 何から何までムカつく野郎だな。ヲイ、ヤン。アンタも男なんだから童貞君なんて言われて黙ってんじゃないわよ。帰ったらアタシと腕組んでアイツに見せ付けてやるから協力しなさいね!」

「なんか理央さん、人が変わってるけど……」

「女同士の時なんて大体こんなもんよ。アンタの学校の女子だってそうでしょ?」

「女、子、とはほとんど話さないから……」

「ああ、そうね、なんたって天使だもんなー。いたいけな少年の夢を壊すなんて、いけないお姉さんねアタシは」

「それ、言わないでよ。だいたいさ、理央さん助けたのは誰だったっけ?」

「ああ、ごめんゴメン。でも、あんにゃろーには、ちょっと仕返ししたいから手伝ってよね?」

「う、うん」

 そう言ってバイクに向かって歩き出す二人。ヤンは途中で一歩遅れて、ヒップポケットから一枚のメモをそっと引き出し片手でクシャクシャと丸めて道に落とした。話題に詰まったらこれを読め「魔法の呪文だ」と、出発前に一石に渡されたものだ。

「ほら、何してんの? 帰るわよ」

 そう言って腕に自分の腕を巻きつけてきた九に、ヤンは早くも呪文の効果を感じてドギマギとするばかりだった。湖に夕日が反射し、空と水辺に美しい紅の縞模様を作り出していた。夕立の心配はなさそうだった。


【一石】1

 ヤンと九の二人を貯水池に行かせておいて、一石は真剣に頭脳を働かせていた。二人の前ではおどけていたが、事実を一番重く受け止めていたのは彼だったのである。


一石レポート

 コレを書いている現在、日時は西暦1984年6月23日である。が、2009年に佐々木理央成る人物が存在していた。コレは事実である。彼女はその時代の6月27日時点で22才。生年は1987年5月4日。そしてその人物は1984年に存在し、やはり22才であった。

 コレは我々(私と友人とその家族)が実際に接触し会話した事実により動かしがたい実在である。

 この現象は、時間跳躍(タイムスリップ若しくはタイムリープ)と認識する以外にないと考えるが、その原因については不明かつ、我々には究明する知識も手段もない。

 よって稚拙ながら考察できる範囲で、それを試みるものである。

 1984年にまだ生まれていない人間が既に存在しているということは、いずれ(この場合およそ3年後)もう一人同じ人間が生まれ、二重存在が発生することになる。ソレは現代科学の範疇《はんちゅう》では不可能な事項である。

 つまり、何らかの人為的方法、或いは自然的事象でコレは解決されるべきはずである。

 1.最も自然なのは、対象人物が元の時代に戻ることである。

 2.あえて次善と言えば、更に他の時空間への再跳躍である。

 3.次にあげるのはとても解決とは呼び難《がた》いが、対象人物の消失というものが考えられる。

 この3説であれば、対象人物が時間跳躍した原因にかかわらず、事後のタイムパラドックスは回避される。

 ただし、もうひとつ既に発生している問題は回避されない。それは、存在の環(対象人物がこれに当たる)。時間の閉じたループである。

 私はこの時間の閉ループは発生可能な事象と考える。私の時間のイメージを簡単に述べるならば、対岸の見えないほどの巨大な河である。そうであるなら、時には部分的に渦を巻くことも不思議ではないだろう。時間の河が巨大である訳は、我々が認識できる範囲を宇宙と呼ぶとして、その中のあらゆる存在ひとつひとつにそれぞれ時間が流れていると考えるからである。

 訳して言うなら、私とあなたと言う存在には、にそれぞれ時間が流れているが、その時間軸上で起こる出来事は同じではない。仮にコレを微視的時間としておく。それ以外にもソレこそ原子を分解したレベルにまで存在は確認されている。それら全ての時間の流れそをまとめて巨視的時間としておく。コレを時間の大河と考えてもらいたい。

 ところで、ミンコフスキー空間と言われる我々の認識宇宙では時間は一方向に、つまり過去から未来へしか流れないとされている。が私の身の上に起こった未来からの客人という存在の実在を無視できない以上、時間のループを認めざるをえないのである。

 更に私が閉ループを認めざるをえない理由はもうひとつある。未来からの客人の持つ、見たこともないはずの現代に存在していない科学技術による機器に、強烈な既視感《デジャヴ》があったからである。

 その閉ループには私が既に含まれていて、恐らく幾千万億回(或いはもっと多く)同じ事象を経験したのではないか? 私はそう言いたいのである。

 さて、本題に入るが、我々はいつまでもこの閉ループに『閉じ込められて』いる訳には行かない。それは正常な時間とは呼べないものだからである。

 そこで先に述べた3点を思い出してもらいたい。

1.元の時代、正規の時間軸上に対象人物(未来からの客人)が戻る。

2.更なる別の時空間への再跳躍。

3.対象人物が二重存在になる前に、何らかの形で消失。

 1と2は人為的には1984年および、我々にとっての未来。25年後の2009年ですら(未来からの客人による言質から)不可能であることが分かっている。つまり今回の事象は超自然的なものと結論するほかない。

 残るは3であるが、消失とは存在そのものが消えることであり、生命体にとってソレは死亡を意味する。私の推測通りとすれば、対象人物と我々にとって、あまりに過酷である。

 それでも、可能性として考慮しない訳にもいかない。

 ただし、私は1の事象を人為的に試みようと考えている。なぜなら、対象人物は生まれる前のこの年に、聞くことの出来ないはずのラジオ番組の一部、ソレもまだ今日1984年6月23日現在で放送されていない内容を記憶していたからである。

 ソレが対象人物も同じ閉ループを体験済みである証拠となる唯一のものなのだ。今のところ鍵はソレしかない。

 言い換えれば2および3の事象は、既に幾千万億回以上起こった事になる。そしてループは未だ閉ざされたままなのだ。つまり、1の事象のみが閉じた時間の環の解放を意味し、対象人物の記憶に残った、件のラジオ放送が行われて以降に、その方策が効果を即すと考えられる。

 我々の手にしているキーワードは、ラジオの放送の内容、トヨタセンチュリーVG40型の個人タクシー、関越自動車道三芳PA手前の使われていないバス停 戦場のメリークリスマスのテーマ曲 以上の4つ。

 これらが全てそろえば、或いは1の事象を人為的に引き起こせるかも知れない。

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 一石在将《いちいし・ありばた》はそこまで事態の考察を進め、ノートに記したところで、もう一つ、しっくりこない。むずがゆい、いらだちをおぼえた。

 何かを見落としていないか、という思いが走らせていたボールペンを止めた。

 以前ヤンと理央に話した、神隠しのビリヤード理論の点で、山友美保なる行方不明の女性を引き合いに出したのだが、たった今、記したばかりのノートを読み返すと『時間の閉ループ』に含まれるのは一定の縁のある人間に限られているのではないだろうか? という疑念が、彼の神経を這い回っていたのだ。

 あの時は手に入れた情報が、仮説に役立つことの嬉しさで、つい安易にその女性を挙げてしまったが、こうして落ち着いて思考をまとめ、明文化してみると、全くの無関係の人間をこの特殊な事態の因子として扱うのは、やはり軽挙で安易にすぎると思えてくる。

 縁。自分とヤンとその家族親族、学内の知人達。過去に接した人々。これらの縁はハッキリ理解できる。では理央はどうだ? 自分たちとの縁はどこにある? 最初に彼女に接触したのはヤンだ。自分はソレを紹介されたに過ぎない縁。

 ヤンと理央に、何の縁が、何の因果があってこの事象が起きたのか?

 ここで彼はアインシュタインの異名に相応《ふさわ》しいヒラメキを得た。

(時間の不可逆性。過去から現在、未来へと時間は経過する。この一般論的認識を逆に捉えたらどうだ? 未来が現在へ向かって流れ来て、現在の行動や事象は過去になる。因果律は過去に原因があり、現在未来に結果が現れると捉える。もし、未来に原因があり、それで現在起きていることが結果だとしたら…… 運命論、決定論的過ぎる嫌いはあるが思考法としては間違いではないよな)

 彼はノートに注として、こう書き加えた。

 * 未来からの客人という事象の原因は不明と既に述べたが、時間の流れを未来から過去へ流れるものと観測位置を置き換えると、未来に何らかの原因があり、結果として今回の事象があるとする論も成り立つ。比喩的に述べれば以下のように考えうる。

 通常我々は、時間という河の流れの上に乗って上流を過去下流を未来として捉えている。コレを時間の川下りとしておく。ではその逆は時間の川上りである。この場合上流は未来、下流は過去であり、自分の位置が現在である。

 時間の上流から流れてくるものは現在にたどり着くが、その原因は下流である過去には存在しえない。上流から流れ来る事象の全ては更に上流(未来)に原因があることになるのだ。

 余談になるが、時間の河幅は前述の通りあまりにも広いため、現在という時点が川幅の垂平方向のどこに位置しているかで、上流から流れてくるもの(事象)が全く違ってくる。それ故、人の運命は人ごとにバラバラなのだ。と言うことも出来るという意味でもある。

(とすると、理央は2009年時点までに、ヤンと何らかの縁があったと考えうるが、ソレが何か…… が分るはずはないな)


九【12】

 九は帰路についたYAMAHA・JOG・50CCの後ろの小さなキャリアに、半分お尻をはみ出させて跨り、ヤンに密着してしがみ付いている。徐々に痛くなるその部分を半ば気に病みながら、先ほどのはしゃいだ様子とは変わって『彼』のことを考えていた。少年の幼さが残るとはいえ、明らかに男性を感じさせる背中が、彼女をそうさせたのかも知れない。

 『彼』のことは名前も正確な年齢も知らない。WEB上のハンドルネームでアトリエ・スミスの掲示板とメールでやり取りするだけの間柄に過ぎなかった。それが、2008年のクリスマスイヴ、微妙な引力に惹かれて彼に抱かれた。それを後悔はしているものではない。むしろ、自分にしては珍しく、単なるSEX以上の愉悦と多幸感らしきものを憶えた。

(アタシは恋に堕ちるのだ)と思った。

 ただ、更に思いもよらぬ出来事で、自分が生まれもしない25年もの過去へ迷い込んでしまった。そこには自分の置かれた状況を信じてくれる年若い少年が二人。状況の打破を真剣に考えてくれている。内一人は今バイクを運転しているヤンこと矢野藍穀《やの・あいき》少年である。

  『彼』は今頃、どうしているだろう。そう思う度、彼女は少年の姿に幾度となく『彼』の面影を感じてきた。こうして体を密着させていると、なお更に彼女の感覚的深度はソレを増してくる。

 そうだ『彼』は、この1984年という時代のどこかで息をし、食事をとり、恐らく学業やスポーツに励んだり、思春期の悩みや性欲と戦い、女の娘とデートなりしているのだろう。

 しかし九は感じ始めていた。ソレが自分に対する詭弁《きべん》であると。

 今こうして少年を背中から抱いていると、なお更に思う。『彼』=矢野藍穀少年の若き日の実在ではないのかと、根拠なく感じるのだ。それは女性らしい直感だったかも知れない。

 しいて挙げれば『彼』のハンドルネーム『i』が自分の『Q』と同じように、イニシャルを当てただけのような、単純極まりなく思える点に、ヤンこと藍穀《あいき》少年の素直な性格がしっくりと馴染むのだ。

 一度自分に都合の良い憶測ばかりが浮かび始めると、一石のように他の逆説や展開した考えができない。

(やっぱりウチは頭悪い)

「ほぅ」

 どこかで聞いた外人歌手の叫び声みたいなため息がまた出てしまう。だがそれはバイクの排気音に飲み込まれて消えた。

 この少年がこのまま25年歳を取ったら、きっと『彼』のような、そうでなくともあと2~3年すれば十分魅力的な青年になるだろう。それが九には解った。

 今この少年はアタシに恋愛感情おぼわしきものを抱いている。なら、もしこの時代から帰れなかった時、アタシは彼を受け入れるべきなのだろうか? それを考えた時、彼女は先刻までの屈託《くったく》ない気持ちでいられなくなっていた。そう、一石にヤンと腕組んで見せて、からかってやろうという風には。

 九とヤンが家に帰り着くと、もう一石はいなかった。

 部屋のテーブルに「宿題」と書かれたレポート用紙が置かれている。

『次回のサン・スト以外に坂本龍一の出演するTV、ラジオ番組を調べとけ。可及的《かきゅうてき》速《すみ》やかに。PS:ところで呪文の効果はあったか?』

「呪文? って何のこと?」

「な、な、何だろうね。変な奴だから、アリバカは」

「サン・ストってのはなあに?」

「サウンド・ストリートってFM番組の略。毎日10時からNHKでやるんだ。佐野元春とか甲斐よしひろとか順番で。火曜日が教授の番」

「教授?」

「坂本龍一のあだ名だよ。芸大卒だから。理央さん知らないの? そっちの時代じゃもう活動してないのかな?」

「ん、いやアタシが詳しくないだけかも。そう言えば娘が歌手だったかな? 坂本美雨って人。あ、そうそう。白髪の長髪にメガネ掛けた、ちょっとカッコイイおじさんで、地雷除去活動とかしてるのテレビで見たかも。ずいぶん前かな?」

「へぇー! 教授が白髪かー。イメージできないな。YMO ってまだやってるの?」

「んーと。あ、そうだ。ビールのCMに教授出てた気がする。オジサン3人が浴衣着たり服がパッパッて変わるの。原っぱでバンドしてるの見たわ。ドラムがヒゲの人で……あれ? けっこう前だったかな」

「オー。見てみたいなー。じゃさ、マドンナは? マイケル・ジャクソンはどうしてる?」

「マドンナは知ってる。CD聞いたことないけど。マイケル・ジャクソンは知らな…… そうよ! マイケル・ジャクソン!」

「ど、どうしたの急に」

「死んじゃったのよ」

「エッ!」

 ヤンは凍ったように固まった。その声もカタカナのように硬かった。

「アタシがここに来たあの日。嫌ってゆうほどニュースが流れて」

「マイケルが死ぬ?」

「そう。6月26日。アタシがあなたに逢った日よ」

 九は少し落ち着いたトーンで繰り返した。ヤンの驚きように何か悪いことをしたなと感じたからだ。だが、彼女にとってはもっと重大な事件が起きた日なのだ。我を忘れて、いや我に返って声が大きくなっていたとしても仕方のないことだろう。

「そうか。あの、マイケルが死んじゃうのか。ジョン・レノンも殺されたばかりなのに」

 九はジョン・レノンも知らなかった。

 彼《か》のビートルズのフロントメンバーだと、説明されれば「あー」という程度の知識しかない。ヤンにしても4年も前の事件であり、今より更に少年だった時期の事であるのだが、ミュージシャンの信奉者にとっては、昨日の出来事とさして変わらないのだろう。

 九にしても、自分のヒイキの男性アイドルが死亡したなどと聞けば、彼と同じか、それ以上の反応を見せるだろうことに、自身で気づいた。

「そっか。好きなのね。マイケルが。でもまだ何十年先のことよ。今落ち込んでもしょうがないでしょう? 元気出してよ。ね?」

「ん。そうだよな」

「そうよ、全然大丈夫よ!」

「また変な日本語。ソレ、僕が中学の時ギャグで考えて使ってた言い方なんだけど、そっちじゃもうギャグじゃなくて正しい日本語になってんだね」

 もう疑問符はつ付けない。ヤンも十分未来の日本語に慣れたようだ。

 ふとヤンの視線が壁のカレンダーに移った。

 

「6月26日って火曜じゃないか!」

「エッ?」

 今度は九がカタカナで驚く番だった。

 

「一石に電話してくる」

 顔を上気させてドタドタと階段を駆け下りる音。続いて耳に届いた「アイキ!うるさいわよ!」と母親の洋子夫人が叱る声。

 「6月26日夜10時」

 九は独りつぶやいた。あの日、自分が訳も分からず渋谷でタクシーに乗った時間だ。彼女もヤンと違わず、胸の内側にモゾモゾと何かがうごめくのを感じた。いつの間にか窓の外は暗くなっており、向かいの家の灯りがやけに目立って見える。月はどこだろう?

 窓を開け首を出して南の空を見回したが月はどこにも見当たらなかった。空は雲に覆われていた。昼過ぎに上がっていた雨が、また朝のように降るのだろうか。ひとつだけ赤い星が、彼女の正面近く。屋根の上の、雲の切れ目からのぞいていた。

藍毅【11】

 遂に目標を補足した藍毅《あいき》は次の行動に移った。今やあの、藍堂《らんどう》という男は狩りの獲物、GAMEに過ぎない。ゲームとは、全く良く言ったものだ。

 この時代、誰も彼もがポケットにゲームを入れて持ち歩いている。携帯電話にすらゲームが内臓されている。人間はGAMEナシでは生きられないのかも知れない。古くは中世より、狩りは戦争の技術訓練を兼ねていた。狩猟を、またその標的をGAMEと呼んだのは当に至言だと、彼には思えた。

 某国のように銃が自由に手に入るならば、そうした手段を選んでも良かったと、彼自身考えていた。

 しかしこの国では容易ではない。トカレフですら、映画やオモチャでしか、お目にかかれないのだ。もちろん、それは治安の面でとても良いことだ。

 ただ、彼には他の特別な技術があった。刀剣の扱いである。

 それは幼い頃に母親から与えられた体育教育の一種に過ぎなかった。柔道、空手、剣道。どれかを選べと言われ、仕方なく一番苦痛が少なそうな剣道を取っただけのことだったのだが、あの男が起こした事件が、本来的に殺傷術である剣技の髄《ずい》を彼に追求させたのだ。

 藍毅《あいき》はアルバイトを始めた。安アパートの生活を維持《いじ》するためだ。それも比較的時間の自由がきく1日毎の派遣労働を選んだ。必要最低限、働き、空けた時間は標的の行動パターン掌握《しょうあく》と剣技の習練に当てる。

 但、事の決行に当たり、保持者免許の必要な真剣は使えない。それに真剣は、とうの昔に手放していた。彼は自分の持ち物の中から代用品を探そうとして、直後に毎日使っている真鍮《しんちゅう》製の靴べらに目が行った。

 なんとおあつらえ向きなことだろう。長さといい、重さ、硬さに至《いた》るまで、小太刀の代用品には十分な代物だった。何より普段ん使いの物だけに、手にはとても良く馴染んでいる。

 天啓だ。と、彼は思った。

 次に必要なのは練習台だ。出来るだけ人間に近い形がいい。マネキン人形なら最適だが、どう手に入れるか迷った。便利だからと、インターネットで入手するなど、もってのほかだ。彼は殺人をするために、それが必要なのだから。

 もっと手軽で誰でも簡単に手に入れられる物はないだろうか? そこで彼は思わず吹き出してしまった。

 いい物があるじゃないか!

 いかがわしい店やインターネットでも売っている『空気人形』だ。

 本来の使用法と自分の行おうとしていることとの、あまりの落差に、つい吹き出してしまった訳だった。

 そんな物をこんなふうに使う奴は世界中に何人いるだろうか? と考えて藍毅《あいき》は神妙になった。戦争の絶えないどこかの国でなら『空気人形』たちは銃で撃たれたり、ナイフでえぐられたりしているかも知れなかった。人殺しの訓練のために。

 それでも彼はそのアイデアも目的も変えなかった。自分も人殺しの訓練をするのだからと、彼は『空気人形』を買いに遠出した。人生で一度も行ったことのない土地の店へ。

 もちろん得意となった変装、と言っても、まだ会社勤めをしていた頃の安スーツを着て、くたびれた鞄を下げた、限りなく個性を薄めた格好でだ。店員は予想通り無表情で、一見して中身の予想出来ない、タバコのヤニで汚れた壁紙のような色の紙袋に『空気人形』のパッケージを入れて「ざいましたー」と、より大事な言葉の方を省いて言った。

 乗り慣れない路線の見慣れない景色を漠然と見送りなから、一度くらい、本来の使用法を試してみようか? と自問して、彼はまた吹き出しそうになった。

 自分の顔が、いやらしくニヤケているような気がして、あわてて顔を撫でた。

 さっきのアイデアを展開すれば1年前の彼なら、アトリエ・スミスのサイト上に『SEX と空気人形と殺人』といった小説を書けたかも知れない。たが今の藍毅《あいき》にはプランクトン大ほどにも、そんな考えは存在出来なかった。

 この後この『空気人形』はイスに縛られ強引に立位のまま、数え切れないほど靴べらの洗礼を受けることになるのだ。なんの罪もなく。

「哀れなことだ」

 『空気人形』を作った誰かが知ったら、きっとそう思うことだろう。

 その夜から藍毅《あいき》はそのように『空気人形』を使用した。部屋の音をごまかすためにテレビをつけたが、どうにも集中を乱されるのでビデオを流した。古いVHS テープだ。

 画面には真白いシャープなスーツと、真白いボルサリーノをかぶったマイケル・ジャクソンがアル・カポネにしてはスマート過ぎる華麗なダンスを踊っていた。スムースクリミナル。

 まるで重力がなくなったように、床に対して45度以上も体を傾けるシーンは伝説になっていて、今見ても素晴らしいダンスだった。

 マイケル・ジャクソンは歌う。

――You've been struck by

- a Smoos criminal――

――キミはヤられてしまったんだ。抜け目ない犯人に――

 早口で独特のアクセントとイントネーションを持つマイケル・ジャクソンの英語は、藍毅《あいき》には全く聞き取れなかったし、文字にした歌詞を提示されても、意味が理解出来る英語力は、流行った当時も今も彼には持ち合わせがない。

 ただ何故か、このビデオテープを流すと練習が上手くいった。だから藍毅《あいき》は毎回そうして練習を続けた。

 抜け目ない犯人になるために。

 『彼』と『空気人形』と『マイケル・ジャクソン』がそうする間に、2009年の春は、もうじき終わろうとしている。

九【13】

 1984年6月24日の日曜は、暑くもなく寒くもないが、梅雨の湿度だけは、その存在を主張してやまない日だった。空は薄明るいが雲の切れ目はない。

 昨夜ヤンが一石に電話したとき、話を聞いた一石が「分かった、1日時間をくれ。考える事がある」と、一言で切ってしまった。したがってアインシュタインの来訪はない。

 ヤンは「ちゃんと勉強しなさい! 理央ちゃん宜しくね?」と、母親の強い語気のため家から出ることもままならない。九は家庭助教を任ぜられている居候の立場であるから、右に同列ということになった。

 仕方なくヤンは英語の教科書やら参考書を広げて30分ばかりは、ソレらしきことをしていた。

「Her cooking was out of this world. えーと。彼女が、料理しています、でした、外、この世界の。動詞が現在進行でそこにbe動詞過去がくっつく意味が分からん。だいたいなんで世界の外で料理なんかしてんだこの女は! 宇宙人か! さっぱり分からんねー。理央先生。教えてよー」

「はっはっはっ」九は棒読みで笑うように言って続けた。

「少年、勉強とは先ず自分の力でやるものだ」自分が以前先輩に言われた台詞を、ここぞと、ばかりに使ってみた。

「分かんねー訳ね」

「なめるな少年、分からないんじゃなくて、忘れただ・け・よ」と人差し指を立てて片目つぶって見せた。

「結局、おんなじジャンか」と小声で悪態をつくヤン。と、このようにヤンが音を上げたため、スタディタイムは一時休止となった。

「もうすぐ一週間だね。理央さんが来て」

「そうね」

「心配してるだろうね、家族」

「うん。たぶんお母さんは泣きじゃくってるだろうな。まあ妹も少しは」

「お父さんは?」

「いないの、今はね」

「離婚ってやつ?」

「そ。それも2度目。アタシと妹は父親ちがうのよ。仲はいいけどね、当然」

「あ、ごめん、変なこと訊いちゃった」

「いいのよ別に。それに、アタシお父さん嫌いだしね。あ、アタシのお父さんね」

「離婚したから?」

「んんん。違う。」

 ヤンは懸命に《けんめい》に話を反らそうとして言った。

「あ、そういえばお母さんて39才だっけ? 理央さんが22才だから…… アレ? 17?」

「そ。中学の時にはお腹にアタシがいたの。だから進学もせずアタシを産んでくれたの。学校じゃ大問題だったらしいよ。金八先生のドラマみたいに」

「金八先生知ってるんだ」

「うん。年に何回かやるからね。でっ、お父さんだけど、ブッチャケあんな人が父親とは認めたくないわね。いくら遺伝子上の父でも。ただ、あの人がいなければ、アタシもいないのよね。だから複雑よね。それに、小六までは月に一度会ってた。子供の頃はお父さんがいないのは寂しいしね。大概がマクドでハッピーセット買って食べながら、パパ。カッコイイだろうなんて言って。ごついシルバーの指輪いっぱい付けて、たぶんリーバイスの501とか穿いて革のブーツに茶色いロン毛。中学にもなればマトモ大人じゃないことくらいは分かるしね」

「ロン毛?」

「長髪のことよ」

 そう、ポツリ、ポツリ、少年に話していくうちに、何か引っかかるものを感じた。もう、十年以上会っていない遺伝子上の父。それがこんなにも鮮明なイメージを覚えているのは何故なのだろう? 頭の中にチカチカと光が点滅し、その男のイメージが明滅する。ごく最近会ったばかりのように。

 九はブルブルと頭を振って、それを追い出すと。

「さ、続きやらなきゃでしょ?」

「えー、もう」」

「アンタが教えろって言ったんでしょうよ。ちょっと思い出したんだけどね。out of this world. って世界の外じゃなくて、素晴らしいの意味じゃないかな? たぶんこれ、『彼女のクッキングは素晴らしかった』でいいんじゃないの?」

 九が思い出したのは『Out of the world』と言う『彼』の作品だった。この件はヤンには黙っているつもりだ。

 ヤンはと言えば「おお! そうなのかー」お気楽なものである。いや、九の身の上話をさせてしまった、その責任を感じての、ジェスチャーだったのだろう。もちろん、人間観察に長けた九にはソノ無邪気な優しさが充分に伝わった。

 午後になっても空は晴れない。薄ぼんやりしたまま、だが刻々と時を刻んでいる。


【一石】 2

 九がヤンに、身の上話をしていた頃。一石は自室でレポートのページを開き、ため息をついていた。

 目的はハッキリしているものの、前提条件が整理できないのだ。

 そもそも、何故未来でなく、彼女自身が生まれる前の、この1984年なのか? 

 やはり『二重存在の許されざる』は絶対値か?

 未来に跳ばなかった理由は?  

 2009年6月26日以降の理央の歴史が文字通り『未だ来たらぬ』

 つまり、不確定性を保持していると言える。

 何故あの場所なのか? ヤンがそこにいなかった場合は? 俺が信じなかった場合は?

 ヤンがいなかったか、或いは助けられない場合、理央は死亡し、時間の閉ループはそこで完成する。俺の存在意義は無い。

 しかし、ヤンはそこにいたし、彼女を暴走車から助けた。俺は彼女を元の時代に送り帰す算段を考える羽目になった。

 やはりヤンと理央は縁が在り、それが呼び水になったと考えるのが妥当。

 暴走車? 暴走車がいなかった場合、ヤンと理央の接点は生じず、俺とも関わらない。

 彼女と暴走車の縁は? いや、車の中の人物と理央の縁?

 ヤンと暴走車の中の人物がいたから、あの日あの時あの場所で、ヤンと理央は出逢った? 

 なら、このままじゃ理央は確実に死ぬ。元の時代に戻らない限り。

 いったい何度目(幾千億回以上)のループかは知るよしもないが、我々、少なくとも俺とヤンと理央は、失敗し続けた訳か。

 この俺が? ヤンの莫迦《ばか》じゃあるまいし、そう何度も……

 役柄が逆だったら? アイツの頭じゃ確かに解けねーだろうが、俺がヤンの立場でも、俺の考える事は変わるまい。

 アイツの立場では解けない理由が? 理央もヤンも俺も定数で、代入可能な変数じゃないってことか。

 だが俺がヤンの立場では解けねー理由は何だ? 原因が解にならない定数なら、原因が変わると解も変わる。代入可能なのは俺の立場だけとするなら…… この役柄は俺でなきゃ務まらない理由がある訳か。とすると原因はヤンと理央の未来の、2009年の関係性に間違いない。

 俺が間違え続けた理由は、代入可能な変数の値。つまり俺以外に役柄を譲ったか押し付けた。もしくは、不適切な式を用いたか、どちらか。

 不適切な式を用いたなら情報が足りなかったのか? 確かに今まで『暴走車』に関しては見落としてしまった。それが式を間違えた理由かも知れん。

 じゃ役柄を押し付けたなら、その理由は何だ? 俺の性格上、この役柄は好みなハズだ。それを放棄するほど好まざる何かが、俺の歴史《シナリオ》に有るのかだ。

「俺たち三人の歴史の総和が?」

 そうだ、ヤンが原因ならば、先にヤンの歴史を消す。例えば今直ぐに。すると2009年のヤンは存在しない。理央との関係性は消えるか、他人にとって変わられる。ヤンが原因でなければ俺も関与しない。なぜなら、縁がない。仮に理央が同じようにタイムスリップしても、そこに俺たちは含まれない。他の誰かだ。

 だが、それは実現しない。2009年までのヤンの歴史は既に存在しているからだ。理央がこの時代に来てしまった限り。

「おいおい、ヤツは不死身か?」

 頭の後ろで手を組み、イスの背にもたれ伸びをして一石は笑った。が、それも長く続かなかった。

「そういう、ことかよ。そりゃ降りるよな。一石在将クン? しかし解った以上……」

 1984年6月25日、一石は確信ある疑念と、確信ある計画を携えヤンと理央(九)を訪れた。

「計画はできた。成功率はほぼ99%以上だと思う」

「思う? 断定しないのかよ? アリバカらしくねーな」

「確率的問題だからな。もし俺が計算に間違った変数を用いていたなら、失敗はありえるって程度の意味だ」

「お前でも間違うことが有るのか?」

「アインシュタインだっって間違いを認めたことがある。俺は天才じゃないからな」

「気持ち悪りー。アリバカが謙遜した」

「時間があまりないんだ。お前とじゃれてる暇はねー。で、どうだ宿題は?」

「結局他になかった。サンスト一本だけ。でも戦メリは曲目にないぜ?」

「なら、お前のカセットテープを流す」

「どこで?」

「理央とお前が出逢った場所だ。そこで放送を聴いて待つ。例の台詞が出たら成功確率は跳ね上がる」

「じゃ、アタシはあの金網をまた越えて関越を歩くの?」

「いや、階段下にタクシーを呼ぶ。TOYOTAセンチュリーVG40型の個人タクシーをな」

「そんなことできるの?」

「世の中便利でな。職業別電話帳で探した。配車予約も済んでいる」

「車種まで?」

「ああ、ついでにナンバーもな。面白い車が見つかったぜ。練馬33 あ 20-09 九石タクシー」

「あざらしタクシー? オモレー名前」

「さざらし、って言ったのよね?」

「ああ、不満でも?」

「アタシ、本当は佐々木じゃなくって・・・・・・ 『さざらし理央』って言うのよ。隠しててゴメン」

「すげーじゃん! 一石、絶対成功間違いなしだな! ナンバーまで成功を、し、し……」

「示唆」

「そう示唆してるじゃん! やったね理央さん、帰れるね、良かったね」

「あ、うん、ありがとう一石君、本当に」

「ああ、ま、いい経験になった。このことを実証できればノーベル賞は頂けるな」

 そう言った割に、一石の表情は重い。しかし他の2人は。

 「スゴ~イ!!」

 息の合ったハーモニーで発せられた。

「もう一度確認する。明日夜22時に関越バス停に三人そろって行く。23時には放送が終わる。例の台詞が聞けたら、理央はタクシーで渋谷へ向かえ。一旦、川越で上下を乗り換えることになるが、運ちゃんも嫌とは言わんだろ」

「で、渋谷に着いたら、元の時代に戻ってる訳ね?」

「そこは、分からん。ただ、戻る場所と時間は、アンタがこっちにくる理由となる何かが起こった『時点』だと思う。その可能性が一番高い」

「それと、タクシーが動き出したらこの封を切って中を読んでくれ。今後の行動方針を書いておいた」

「今じゃ、ダメなの?」

「ダメだ! 今、理由は言えないが絶対にダメだ!」

「分かったわよ」

「よし、では今日1日はゆっくりこの時代を楽しんでくれ。但し他者との接触は不許可だが」

「また、子守カヨ!」

「いや、アホの面倒は俺がみる。矢野のおばちゃんとランチとか、買い物でもしてくれば?」

「え、イイの!」

 理央(九)の目は輝き、声が弾んでいた。消費者金融という職業柄、昼時に外でランチをするのは不可能だった。一番の掻き入れ時に当たるからだ。

 街の目ぼしい店のランチタイムが終わって1時間は過ぎた頃、午後3時前後に交代で食事を摂るのが常だった。

 みんなでお弁当などというのも、無理な話で、彼女らの業種の女性は、誰かと『美味しいランチを食べに行く』そのことが、ささやかな非日常の最たるものとなっていた。彼女の喜びようはそういった事情による。

「いいさ。最後の晩餐だからな」

「縁起悪そうなんだけど」

「末期の水より、ずいぶんマシだと思うが?」

「いちいち小憎らしいわね、相変わらず。でも恩人の言うことだから、ありがたく好意に甘えさせていただきますわよ」

 こうして、理央(九)は洋子夫人と昼前にショッピングセンターへ出かけて行った。一見してその背中は母と娘のように馴染んでいた。あれなら誰も違和感を覚えたりしまい。一石は満足した表情を浮かべ窓からそれを見送った。


藍毅 【12】

 藍毅《あいき》は次の行動に困っていた。あの、藍堂《らんどう》という男の、獲物の行動パターンをまだ見つけ出せずにいるのだ。

 例の事務所に現れるのも、何曜日であるとか、週に何度であるとか、習慣性というものがなく、まるで無計画に見えるのだ。

 手詰まりだった。藍毅《あいき》は次の一手を読み解こうとする将棋差し《チェスマン》のように、長考を余儀なくされた。

 せっかくここまで追いついたのに王手《チェック》がかけられない。

 何か、何かないのかと、張り込み中も剣技の稽古の時も、日雇い仕事の間中も、藍毅《あいき》は考えずにいられなかった。

 この日も巨大運輸会社の広大な流通センターの高いビルの一角で、様々な企業の業務用品や商材を、注文通りに、だだっ広い倉庫からピックアップする仕事をしていた。

 ピッキングにはカートと呼ばれる手押し台車とバーコードスキャナー端末を使う。カートの構造はスーパーの食品売り場の物と大差ない。圧倒的な違いは、そのカートにはコンピューターが搭載され、1周400メートルのトラック両側にあばら骨状に並べられた鉄製の棚の、どこの何を幾つずつ、カート上下に2個ずつに置かされた、どのダンボール箱に入れよ。と指示がされ、毎周の終了予定時間がカウントダウン式に表示されることだ。

 カートの重さ自体が10キロある上に、事務用品やコピー用紙の箱、はてはお茶道具に米や缶詰めまで、先に重い物から積んで行くため、スタートしていきなり総重量40キロなどザラにある。

 ゴール時には80キロ近いカートを押して走ることになる。それを8時間。

 真冬でも室内気温が5度でも半袖。短パンもはきたいくらいだが、危険防止のため禁止されている。夏場は2リットルの飲み水をカートの持ち手に下げて走る羽目になる。更にご丁寧なのは、1時間毎に、個人生産効率の順位が名指しで貼り出される。藍毅《あいき》はいつも、赤色の中に名が有り監督に睨まれている。そんな仕事だ。

 その最中に、いつもはオフのはずの携帯が鳴った。

「切っとけつってあるよなー! 持ち込み禁止するぞ!」

「スミマセン。いえ申し訳ありません。切り忘れてました、切ります」

 そう言いながらも、カートは走らせねばならない。

 午後3時。ようやく食事休憩のシフトが回ってきた。一息に水を500ミリリットル飲み干す。

さっき携帯が鳴った原因を確かめる。

「ちっ」と彼の悪癖である舌打ちをしてしまった。迷惑メールだった。

 藍毅《あいき》は削除しようとした手を止めた。スミスの言葉が頭をよぎったのだ。

『風俗方面のお仕事』

 ひとつのメールを読んでみることにした。

差出人:mizuki

件名:ご迷惑ですか?

本文:代わり映えのしない毎日、毎日が同じ事の繰り返し・・・

そう感じたことはありませんか?

でも、毎日が変化に富んでいても疲れるだけ。

ほんの少しの刺激があれば毎日が楽しくなります。

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mizukiょり

 良く出来た文章だ。何をするとも具体的な提示は全くないのに、何か自分が得をするかもと、人間の欲望に噛みつく文章だ。

 怪しい稼業でも、これほどのスキルが必要な時代なのだ。藍毅《あいき》は少し感心してハッとした。

 このメールに何か感じるものがあった。何だ?

 そうか、これは老若男女の別なく使える文面で、マルチだろうが詐欺だろうが美人局《つつもたせ》だろうが使える手口なのだ。

 藍堂がモデル詐欺をしていたなら、男に対しても同様なことを仕掛けていても不思議はない。

 例えばこのメールなら出張ホスト詐欺に、うってつけだ。奴も似たようなことをしてるんじゃないか?

もう一度メールを見直した藍毅《あいき》はリンクと差出人に藍堂の臭いを嗅ぎつけた。その時携帯が激しくバイブし休憩時間の終わりを告げた。

 彼は食事を摂り損ねた。


【一石】3

 「さ、て、と」

 ヤンと二人だけになった一石は、部屋の壁に立ったまま背をもたれかけ、ゆっくりと言葉を吐いた。

 いつ取り出したのか、手には爪きりくらいの赤い楕円形があった。スイス軍御用達で有名なビクトリノックスの、折りたたみ式キャンピング・ナイフ。それを手のひらで鉛筆のように転がしながらヤンを見すえる。

「お前…… 誰だ?」

 刺すような視線を向けた。

「一石? 何言ってんだお前、本当にアリバカになったのか?」

「もう、トボケなくていい。答えろ。お前は誰だ!」

 仕方ない。表情でそう言っていた。

「予想通り答えないか。じゃあ次の質問は……」

 一石はいきなり壁を蹴り飛ばしヤンに体当たりを食らわす。

「コイツだ!」

 堅く握られたナイフの刃は瞬時に引き出され、鋭く上を向きヤンの腹部に突き立った。 

 突き立ったのだが、服さえ破れない。

 そして、ヤンも一石も驚いていない。

 今度はヤンが口を開いた。

「凄いな。そこまで気がついたのか。そう、正解だ。今の僕は既に決定された歴史以外の出来事で、傷ついたり死んだりすることはない。いや、出来ないと言うべきかな。何故だか解かってるんだね?」

「前後、左右、上下の三つの時間軸を持つ、立体的時間球。時間的閉曲面。有限の歴史しか持たない永遠を繰り返す時間」

「すばらしい。さすがだよ、矢野藍毅《あいき》クン」

「そう思うなら、とっとと俺の体を返してもらおうか? 一石在将サンよ」

 お互いが相手を自分の名で呼び合うという奇妙な現象が勃発した。しかし、やはり両者の反応は先ほどと同じく素っ気無いままだ。

「もちろん返したいさ。但しキミもまだ、不完全な状態だから少し勘違いをしているようだ」

「何?」

「簡単極まりなく言うと、僕たちは二人の人間の体に半分ずつ入っている状態なんだ。ボゥルにコーヒーとミルク。美味しいカフェオレみたいにさ」

「高次元-共時性-同位相体…… だ、と?」

「上手い表現だな、メタ-シクロニシティ-トポロジーか(meta-Synchronicity-topology)まだ存在してない概念を一瞬で言語化するとは、やはり凄い頭脳だねキミは。そう、似たもの同士混ざっちゃったんだよ、僕たちは」

「バカにしてんのか? いや自画自賛だな。今のは俺のオリジナルな発想じゃねー。お前の知識が俺に混ざってるんだろう? ナルシスト野郎」

「ひどいな。頼むからそう尖がらないでくれないか? 僕たちはずっと『同じ有限可能性しか持たない閉じた歴史』の球を何万億回も一緒に巡った共同体なんだよ? 双子みたいにさ」

「双子ね。ふん、例え、一卵性双生児でも、同じ運命とは限らない。別個の存在だぜ」

「もちろんそうさ。でも僕たちのコトは事実なんだから仕方ないだろ? 解かってるんだろ?」

「解かりきっちゃねーよ」

「もう一度言う。いいかい、僕たちは何も敵同士じゃない。偶然同じ船に乗り合わせて、たまたま遭難したようなもんさ。僕だって早くオリジナルな自分に戻りたい。だから、キミが気づくまで無限とも言える歴史周回に耐えてきたんだ。やっとチャンスがソコまで来てるんだ、焦らないでくれよ」

「俺が気づく、まで?」

「そうだよ。この事態はお互いが 『同時に同じコトを同じ環境で考えつかなきゃ』 解決できないんだよ。本来在るべき歴史に戻るにはね」

「本来、在るべき、歴史」

「この閉じた歴史の球体から、それぞれの元の歴史線上、流れに戻るってことさ。気づいたんだろう? ココは間違った可能性の中だってコトに」

「ああ、だがそれは理央のコトについてだけだ」

「それでもOKさ。彼女を含めて、僕たち三人ともココから脱出するんだ。ようやくね」

「まだ、俺には情報が足りてねー。教えろよ。お互いが同じ環境で同じコトを考えなきゃならんのだろ?」

「もちろん教えるさ。だからキミには落ち着いて欲しかったんだよ。あのまま興奮されてちゃ、せっかくのチャンスをフイにするか知れないんだもの。ちょっと長い話になるけどいいかい?」

「なるべく簡潔にしてくれるとありがたいね」

「うん。つまりね、コノ3次元時空での歴史は、結果だけ見ればたった一つの事実を積み上げた線にしか見えない。けど、何かが起きて決定されるまでは無尽蔵の可能性が含まれていた訳だよ。誰にとってもね」

「ああ、未来は無限に膨らむ風船の上半分のように、中心から9時、0時、3時方向に開いている」

「そうだね、その中で普通は最も起こりやすい可能性が、悪くても2位か3位の可能性が実現して、あらゆる物質の歴史を作っていく。それがその物質、例えば僕たち人間として、それぞれの個人にとっては都合が悪くても、確立の高い可能性が事実となってしまうんだ。残念ながらね」

「でも、今回はそうじゃなかった。最も起こりにくい不安定な確率が、僕たち三人に同時に起きてしまった。さっきキミが言った、『意味のある偶然の一致』=共時性と『同じ連続性を持って変化出来る性質』=同位体が重なってしまったんだ。しかも、とんでもないことに別々のかけ離れた時代において」

「1984年と2009年。それと?」

「実を言うとハッキリ分からない。キミたちの文明が化石で発見された後の話だからね。僕の知る物差しでは、醒暦《せいれき》2009年。そしてそこは3次元時空でなく6次元時空間。ココにいる僕は正確には僕の一部分が3次元時空で可能な分だけ具現化したモノなんだ。そうだね、小指の爪くらいの情報しか現れてないと思ってくれ」

「醒暦ね。6次元に覚醒《かくせい》した暦《カレンダー》って訳か。するとアンタは6次元時空の存在で、しかも爪の先で3次元時空の化石時代の言葉を話せる訳だ。荒唐無稽《こうとうむけい》だとは思わないか? それとも俺たち3次元時空の人間より、高等無形な存在だからだと?」

「それもまた、幾何級《きかきゅう》数的偶然の一致」

「一致する偶然性が、うなぎ上りだと? 逆だろ」

「起きたことは事実だよ。論理も理論も意味がない。今回のようにね。順番で言うと僕とキミが初めにシンクロした。その時間閉曲面だけなら僕らは、正規の歴史と無関係な本当に孤立し独立したどこへも行けない存在になるしかなかった。ところが幸いなことに、キミの可能性の中には、彼女と接した時間的可能性《リンク》が含まれていた。それで何千万億回目かで彼女もココへ含まれてしまった。彼女には不幸だろうけどね」

「ふん。なるほどな。俺としては、それで納得しておくしかない訳だ。で、俺に何をさせる気だ?」

「人聞きが悪いなぁ」

「誰も聞いちゃいねーよ」

「はぁあ。まだ敵意丸出しか。しょうがないな。ま、呉越同舟《ごえつどうしゅう》ってことでもいいよ。救命艇には敵味方なく乗せるものだろ? 要は僕たちの意見が一致するコトが最重要な課題だったんだからね。キミの立てた計画通りにすればいいと僕も思う。僕たちは中身が混ざってしまったけど、彼女はれっきとした個を保ってる。そのコトは歴史の本流に繋がる糸だよ。彼女が元の時代に戻れたとき、僕たちの位相も上手くズレて個を取り戻せると思うよ。でも僕ら二人のことは」

「理央には知らせずに、だろ」

「キミらしい疑問符抜きのキャラクターが戻ってきたみたいだね。それでいい。彼女を再び混乱させるとチャンスがフイになるかも知れないからね。いままで通り、僕はヤンでキミが一石」

「OKだ。その点はな」

「けどな。それじゃあ、今の俺とお前の、どっちが本来の矢野藍毅《あいき》に近いんだ? なんでこんなに性格も能力もが違ってる?」

「どっちもキミの性格と能力だよ。ただ表面的に分化してるだけ。よく二重人格とかって言うだろ? だけどどんな人も機嫌しだいで乱暴になったり、穏やかになったりするもんさ。能力においても、得意と不得意があるだろ? たまたまキミの側に得意分野が集中しただけさ。性格については、こっちの僕が干渉を控える努力をしてるから」

「なら、俺たちが元の体に戻ったときはどうなる? この体は、いったい誰になるんだ? お前はこの時代の、この宇宙の人間じゃないだろ」

 ヤンは眉を寄せ、髪をかき混ぜるように頭を掻いた。

「うーん。そこまで解っ……」

 ガチャリ。ドアが音を立てた

「聞こえてるんだけど。何の内緒話?」

 声の主はもちろん理央(九)だった。

「何も? タイムスリップの細かい話をしてただけだ。ずいぶんお早いお帰りで」

「せっかく食事に行くなら、みんなで一緒にって思ったのよ。で、アタシに知られたくないってのは何なの?」

「そんなとこから聞いてたのかよ。訊くと後悔するぜ? 無事に帰りたかったら知らない方がいい。いや。知らないでおいてくれないか? 明日の成功のために」

 悪びれたふうもなく一石にそう言われた彼女は、食い下がる術がなかった。部屋のドアにたどり着くまでに聞こえた、6次元だの、イソウドウイタイだの、シンクロだのという何のことか分からない単語は、確かにタイムスリップの話をしていたように思える。ただ、一石とヤンの間に先程までとは明らかに違う、空気の隔たりが在るのを感じていた。そして彼女は一石の手にナイフを見つける。

「それは、何?」

「ああ、コイツに分かりやすく話すための小道具」

 またも一石は、しれっと言ってのけた。

「アハハ。理央さん聞いてよ。やっぱ一石の話は難しくて分かんなかった。ダメダこりゃって感じ。頭使いすぎて腹へっちゃたよ。迎えに来てくれて助かった。行こ行こ」

 先刻のポーズのまま、ヤンは頭を掻きながら階段へ向かってドアを出て行く。

 それを見た一石は(あれで干渉を控えてるっていうのか? いったい明日俺はどうなっちまうんだ)

と、それを考えざるを得なかった。


藍毅 【13】

 空腹のまま残る作業時間を、なんとか勤め終えた藍毅《あいき》は、駅ビルのハンバーガーショップに遭難者のようになだれ込んだ。まったく仕事というものは、どんなものでも楽ではないと、痛いほど感じていた。

 世の中の人々はよくも何十年と耐えていられるものだと思う。自分は何故、他の人々のように仕事と親密な関係を築けないのかと、己の幼稚さを呪うのは、こういう時だ。

 つい数ヶ月前までなら、そのまま自己嫌悪に陥《おちい》り、更にそれから逃《のが》れようと現実逃避したに違いない。藍毅《あいき》は自分で自分の滑稽《こっけい》さに苦く笑いを噛みつぶすしかなかった。

  仮に、もう一人自分がいたとして、彼に今の自分は何のため働いているのかを、どう合理的に説明してやれるだろう。

 自分は人殺しをするために、生命を維持《いじ》しなければならず、汗水たらして懸命に働いている。それでマトモな人生を送ろうとしている人間と同様、人並みに労働の疲れに悩んだりしているのだ。

 マトモな人間に、例えばスミスにしても、それを知れば激昂《げっこう》する以外に反応しようがあるまい。

 ならばマトモな人生に戻れば良い。殺人計画を立てたからと言って、それだけでは社会の誰かに迷惑をかけるものではない。それよりも欠勤や遅刻の方がよほど迷惑がられるだろう。今ならまだ、何の罪を犯した訳ではないのだから。

 それは藍毅《あいき》自身、論理的思考として理解し、常に抱いているものだった。にも関わらず彼の心は真っ当さを跳ねのけて彼の行動を支配する。

 ハンバーガーをむさぼりながら彼は昼間のメールを再確認する。mizuki。selev。スペルが違っているが、あまりにも分かりやすい関係性が見える。

 藍堂深津己《らんどう・みつき》とあの男は名乗っていたし、セレブ・リッチ・スターライト・エージェンシーなる看板も挙げていた。このメールに食い付いて行けば、あっさりと藍堂に繋がるように思われる。まるで運命的としか考えられない偶然が目の前にぶら下がっている。藍毅《あいき》には他に選択肢がない。

 URL をクリックする。予想通り出張ホストの募集だった。ハズレなら仕方ない。当たればあの男に手が届く。ためらいなく彼は連絡先を入力した。

 5分と待たずに返信が来た。

面接をするため、指定日時に渋谷のファミレスに来て欲しいとの内容だった。

 指定日時は、翌日。6月26日午後4時。藍毅《あいき》は、いよいよ確信を強め、派遣事務所に明日のキャンセルを入れ、部屋へ戻ると決行のため万全の準備を整えた。あれほど重かった疲労も、その夜は彼に眠気をもたらすことに失敗した。

 藍毅《あいき》の心は定まった。

 後は行動するのみ。

【終章】

 一石レポート2

 私がたどり着けた結論の大筋は間違っていなかったが、全く予想外の事象が含まれていることを、ある人物によって提示された。

 その人物は私の友人であり、そしてまた私自身でもあると言うのである。

 更に驚かざるをえないのは、彼によれば、私と私の友人とは、人格がそれぞれの体に、半分づつ分化して存在していると言う。

 その上彼は我々が想像の上でしか認識していない6次元時空間の存在であり、その一部分が我々に同化しているとも言う。

 それを信じるかどうかは各自の別としても、どうやら今、私は自分でない体に、矢野藍毅《あいき》という私自身の人格の偏《かたよ》った性格として現れているらしいのだ。

 本来の私の体にはやはり偏った人格が表層をなしていると、件の6次元時空生物は元は私であった体を使って述べた。

 彼は私の6次元時空間の認識を正しいものと評した。

 記録として私のその概念を簡単にまとめておく。

 6次元時空間とは何か。まず我々の認識出来る時空間は、前後左右上下の広がりを持つ3次元空間に一方向にしか広がりがない1次元の時間をもつ4次元時空間である。

 時間は我々にとって1次元なのだ。

 ではその1次元の時間に直角に交わる時間座標を考えたらどうなるだろう? 

 算数で習ったX軸Y軸を思い出して欲しい。但し両方とも時間を表したものになる。Xを普通の過去現在未来の流れ方向とすると、Yはそれに直角となるから、『永遠の現在』ということになる。この2軸で表せる時間を時間平面と呼ぶ。

 更にこの平面に垂直なZ軸を立てた場合、その性質は可能性を表したもとなる。

 各座標軸に交錯する任意の点を選ぶと、そこには、『流れる時間』の中『永遠に留まる異なる現在』と 『異なる可能性』のひとつだけが含まれる。

 3次元時空間とは、その中の点座標を結んだ一方向の歴史しか持つことができない。

 ところで6次元時空間の各座標軸は無限である。するとどういうことか起きるか。

 なんと、あらゆる存在、地球も突き抜ける粒子から、人間などの生物を含む物質宇宙の、全ての可能性が実現した宇宙なのだ。

 理論上は我々にも納得出来るものであるが、それを実証するのは不可能だろう。

 その人知を超えた存在が、今回のもう一人の未来からの客人だったのだ。

しかもその存在は私を二人の人間に分化させ、そのどちらにも混ざっているという。

 どちらにしても、彼にとってもこのタイムスリップは予期せぬ事故で、今回私が一石在将としてたてた計画が、ようやく訪れたチャンスをものにすると信じると言う。

 私の心配は、明日、計画が成功したとして、自分はいったい何者として存在出来るのかに、不安と興味を持っている。

 6次元の生命体らしき彼の与えてくれた情報は疑問か残るのだ、私と友人が同一人物が分化したのなら、元の一人に戻ったとき、今私の体として機能している肉体は、どこの誰のものなのか? これについて、彼の言質《げんち》をとるには残念ながらいたらなかった。

 ただ一石在将としての私には漠然とだが確信と言える考えがある。

 このレポートは数十年後の自分ために記録したものであることを付記しておく。

  全ては明日、1984年6月26日深夜。実行あるのみだ。

◇◆◇

 「こんばんは、坂本龍一です」コンピューターで演奏された電子音が、単調だが躍動感溢れるリズムとメロディーを繰り返す。いつもと同じように番組は幕を開けた。

 1984年6月26日午後10時。朝からの雨はとうとう止む気配を見せなかった。理央(九)とヤンと一石の三人は、ヤンの父親が仕事に使っている、ワンボックスのバンに乗り、あのバス停の階段上に来ている。

 この辺りの関越自動車道の側道周りは畑の農道と言った風情で、道幅は広くない。昼間は畑だから見通しが良いが、夜は街灯などほとんどない上に、畑の方が道より低いため、関越側道以外の横路は闇だ。ましてこの雨だ。最早、漆黒と言っていいほどの暗闇だった。

 バンはその横路の一本に停車している。バス停から一番近い位置だ。その中でヤンも一石も押し黙ってラジオを聴いている。理央(九)は予想外の緊張を強いられていた。何かこれから悪いことでも起こりそうな、そんな空気感がバンの中に満ちている。理央(九)は堪えきれず「何黙り込んでんの?」と二人に向かって口を開いた。

「世紀の一瞬を逃すまいと、真剣になってるように見えないか?」と一石は応じる。

「ヤンくん?」

「いや、理央さんともうお別れかと思うと、なんかシンミリして来て……」

(あれも俺のセリフなのかよ? 一人に統合したら分裂症に成るんじゃないのか?)一石は表情を変えずに、そんなことを考えて(まぁいい。俺の一石としての役割はもう、ひとつだけなんだからな)と視線を窓の闇に向けた。

 ラジオから聞こえる坂本教授の声はゲストが妻の矢野顕子のせいか、いつもよりはしゃいでいるようだった。「そう言えば、今年ですね、戦メリがテレビ放映されるらしいですが、吹き替えはどうなるんでしょうね?」

「自分でやらないんですか?」

「何も聞いてませんね、僕は」

 三人は顔を見合わせた。

「言ったな」と一石。他の二人も頷く。一石がラジカセのテープでメリークリスマス・ミスターローレンスを流した。

 切なげなピアノのリフレインがこの日の雨によく似合っていた。

「もうすぐ番組が終わる。タクシーもそろそろ着くだろう。行こう」

 バス停の金網には、あらかじめ脚立を跨がせておいた。理央(九)がよじ登る必要がないように。階下を覗き込むと、ちょうどタクシーがバス停に寄って来るのが見えた。

「行けよ」

脚立に高く傘をかざして一石は言う。

「うん、色々ありがとうね。一石くん。ヤンくん。

お母さんたちによろしく。やだ、なんか涙でてきちゃった」

「前に渡した封筒は持ってるな? こっちは追加のお土産だ」

「うん、分かった」

「理央さん、帰ったら僕を探してね。もうオッサンになってるだろうけど」

「うん探すよ、もちろん二人共。じゃ21世紀で会おうね!」

「うん、またね」

「ああ、元気でな」

 一石は、またな、とは言わなかった。

 理央(九)は階段を一歩一歩確かめるように闇の中を降りていく。タクシーの白い車体がハッキリ見えてきた。階段を降り切ると彼女は二人に、大きく両手を振ってバイバイをしてからドアの中に滑り込んだ。

「行っちゃったね」

「行かせたんだからな。さあ、俺たちはどうする?」

 突然二人の右から白い光が照らした。煙る細かい雨にぼやけて球状に膨らんで見える。それはどんどんん大きくなりワームホールの入り口に見えなくもなかった。が、一石は最初からそれが来ることを予期していた。

「役者はそろったな、後はシナリオどお……」

ドン。

 味気ない音だった。


◇◆◇

 タクシーがいったいどのくらいの時間走ったのか、九には分からなかった。いつの間にか夜は、燦々とした光に満ちている。彼女は直ぐに理解することができた。自分が懐かしき2009年に戻って来たことを。

 タクシーの中で読むように言われた一石のレポートには、九がタイムスリップする直前に、原因となる何かがあったはずだと記されていた。そしてそこには2009年のヤンが居るはずだと。急いでヤンを探すようにとあった。

 そして彼女は、親友の結婚式のあった日の夕暮れと同じ場所に立っていた。道玄坂の途中に。

 彼女の立つ歩道から車道を挟んだ向かい側に、記憶に有る面影が二つ、横顔を見せていた。一人はもう十年は会っていない遺伝子上の父によく似ている。

 そしてその後ろに、彼女がずっと気にしていた『彼』の姿があった。

 もう見紛《まが》うことはない。九は両手をメガホンにして道の向こうへ精一杯の声で叫んだ。



 藍毅《あいき》は静かに道玄坂を下っていた。目の前には自分の大切なヒトを奪った男がのうのうと生きて歩いている。男の脇を三歩追い抜き、間合いを計る。あと半歩。来た。

 藍毅《あいき》が音もなく体を後ろ向きに入れ替えると同時に、剣となした真鍮製の靴べらがひらめく。

(斬る!)

 藍毅《あいき》がそう気を定めた刹那。

「ヤンくん!!!」

パキンッ

 ワイングラスを割るような美しい音だった。しかし音量は何かの爆発ほどに大きく鳴り響いた。

 辺りは凍った氷河に埋もれたように動くものがなくなった。空気さえ、そよともしない。雑踏と喧騒も、映画のフィルム1コマのように不自然に静止している。

 藍毅《あいき》の頭蓋の中でも、同じ音がした。だがそれはとても小さく、そして澄んだ雫のような響きだった。けれどそれが彼に与えたものは、濁流《だくりゅう》が瀑布《ばくふ》となって大地をえぐるような衝撃だった。彼の頭の中のブラックボックスが砕け、封印された記憶や感覚が噴出して、全身を疾走した。瞬間、藍毅《あいき》は神経と感情が一気に爆発し、自分が粉々に砕け散るのだと信じた。それを阻止したのは柔らかく背中から抱きしめる腕と。

「ただいま、ヤンくん」

 自分が若者だった頃の名を呼ぶ声だった。藍毅《あいき》は携帯のバイブのように震えた。

「Q…… 理央さん!」

「そうよ、アタシよ」

「Q、理央さん、理央さん!」

「若い時より子供みたいよ? さあ、しゃんとして、一石くんから手紙を預かって来たの。一緒に読めって」

「あ、あ、一石が、一石が」

 要領をえない言葉を呟きながら藍毅《あいき》は封から紙片を取り出した。



________

ヤン。お前がコレを読んでいるなら、俺、一石在将はもう死んでいる。

いや、理央が俺たちの1984年に来なければ、俺はもう少し早く死んでいた。

恐らく、6月19日の夜に。だがそっちのお前が何かしたおかげで俺はとばっちりを受けたんだぜ?

だがおかげで面白い人生を体験できた。

詳しいことは続きのレポートを読め。25年も経った後のお前なら多少は理解できるだろう。

ともかく、お前の世話にはもう飽き飽きだ。惚れた女くらい自分で守れ。あばよ、バカ野郎!

グッドラック!

________

◇ out of the world ◇



◆◇◆

 セカイはすり替えられている。

 誰しも気づかないうちに、少しずつコッソリと。

 毎日通る道すがら、目にし、薫り、音に聴こえる風景。

 古びた家屋、新しいビル、公園、雑木林、遥かに霞む山々、100マイル先の海、行き交う人々。いつもと同じそれらの風景。

 雨が降ったり、晴れ渡ったり。

 雪の舞ったり、花の誇ったり。

 そういうこともあるけれど。

 大体が巡り来たるいつもだ。

 そして僕らは愕然とする。

 何もかも変わったセカイ。

 それを気づかずいた事に。

 そういうのって恋に似ているかも知れないって思わない?

 僕らにとっての、誰かがいつの間にか、いつもと違う人に成ってる。

 心のある部分をソックリ取り替えられたみたいに、そこがその人の居場所になる。するとその人はもう、いつもの誰かじゃなくなるんだね。

 少し、いや、ずいぶんとハズカシい話を今からしようと思う。アナタは笑うだろう。こういう時の僕の預言はかなりの高確率で当たる。

 では話そう。

 恋は空から降って来た。(ホラ、もう噴き出しそうじゃないか)これは嘘でもなんでもない。本当に真っ白い服の女の娘が、いきなり僕の目の前に落っこちて来たんだからね。

 メアリーポピンズみたいに、陽傘をさして、ふんわりとカッコよくじゃなくて、どちらかと言うと、ドスン、て感じ。

 僕は堕天使って言葉を久しぶりに思い出した。だから「キミは天使?」って訊いたら笑われた。

 何故、僕が笑われなきゃならないのか理解に苦しんだね。だって人間の女の娘だとしたら、まさか飛行機から飛び降りた訳じゃないだろうし、パラシュートも着けてないんだから。それとも自殺のつもりで?

 ともかく彼女は天使じゃなかった。けれど、どうした訳か帰る家は僕と同じだった。

 それで僕らはお互いに不思議に思いながらも、一緒に暮らすことになった。彼女の言葉はちょっと変だったけど、通じたから僕らは話をした。

 だって一言も話しをしないで、同じ家で暮らすなんて、拷問より酷い地獄じゃないか。

 彼女は僕の知らない世界の話をし、僕は彼女の知らない歌をたくさん聴かせた。と言うか一緒に聴いた。

 僕は彼女が好きになった。僕のセカイには僕と話してくれる女の娘なんて居なかったからね。

 でも僕らの暮らしはそう長くは続かなかった。なんだか世間の離婚話みたいに聞こえるかも知れないけど、そうじゃない。彼女にはちゃんと、帰るべき世界があった。だから帰らなきゃいけなかったんだ。

 そんな訳で僕らはキッカリ一週間だけ一緒に暮らした。

 これを言うのはすごく恥ずかしいのたけど、僕はとうとう彼女に打ち明けられなかった。

 この胸ノときめきヲだ。

 そして彼女は僕の側から離れて行った。無事に彼女の世界に帰り着けていればいいのたけど。

 それで恥ずかしいついでに言ってしまうと、実はコッソリ彼女の写真を撮ったんだ。たった一枚だけ。長椅子で居眠りしてる姿があまりに魅力的で、どうしようもなく天使的だったから。

 その写真はいまでも僕の宝物だ。でも絶対誰にも見せない。心の中にも彼女の居場所はちゃんとある。

 何故なら?

 それはもう、この世のものとは思えないほどキュートでクールで最高の女の娘だからさ。

Her was out of the world!!!

 そして、この一言が一番重大で、とてもとても恥ずかしいんたけど、言わなきゃならない。

 アナタがその写真の女の娘と別人とはどうしても思えないってことなんだよ。

 ね? やっぱり笑ったじゃないか。

 written by 『i』chiishi.


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---僕らは世界を変えるためにやって来たんだ。 ---

キャプテンEO

1987.3.20~1996.9.1



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